稚内のユースホステル
稚内のユースホステルの変革
日本最北の街、稚内市にもユースホステル(以下YH)があります。
現時点(2017年4月)で稚内市にはYHが1軒ありますが営業休止状態です。
現時点で稚内にあるのは以下の1軒だけです。
モリシパYH (営業休止中)
昨年末まで以下のYHがありましたが長い歴史に幕を下ろしてしまいました。
稚内YH(2016年12月31日で開館)
結局稚内市ではYHは利用出来ない状況で、休止中の「モシリパYH」も割と長い間休館しているようなので今後がちょっと心配になります。
私が初めて北海道に行き始めた頃(1976年)は稚内市には2軒のYHがあり、いずれも泊まったことがあります。
・稚内YH: これは上述の稚内YHとは全く違うものです。駅からやや北に行った宝来町にあり、一年中カレーライスを出すYHとして有名でした。このYHはどこのYHにも継承されることなく1983年9月30日に閉館となりました。
今(昨年まで)は稚内YHというと南稚内の街を見下ろす「こまどり」にあるYHの事を言う人が殆どですが(ほぼ全員?)、私にとっての「稚内YH」はこの宝来町にあったYHのことなのです。
残念ながら写真が手元になく、またネットで検索しても全く出てきません。もし家で見つかったら載せたいと思います。
・YHこまどりハウス: 昨年末閉館時の名称は「稚内YH」で名前が変わったものです。建物自体は「こまどりハウス」の時と同じです。(内部はかなりきれいになりましたが)
ここは1972年12月31日に閉館になったYH喜登旅館の後継施設として開業したそうです。
南稚内駅から線路を渡って西側の坂をずーっと登って行き15~20分くらい歩いてたどり着きました。
でも街や海を見下ろす眺望は素晴らしく、無くなったことが残念でなりません。
Wikipediaにも情報は少ないですが記事は在ります。
初めて私が「YHこまどりハウス」に泊ったのは1976年(昭和51年)8月15日(日曜日)でした。
当時は北海道ブームがやや下火になりつつある時期でしたが、それでも夏の北海道のYHはどこも大変な混雑で、この「YHこまどりハウス」も例外ではありませんでした。
この日、私は天北線(既廃止)経由札幌発稚内行きの「急行天北」に名寄から乗車して南稚内までたどり着いたのですが、「急行天北」の車内もすごい混雑でやっとの思いで席を確保できたのを覚えています。
(前日の宿泊は今は無き、「紋別流氷の宿YH」でした。)
YHこまどりハウスもすごい混雑でしたがまともなベッドに寝れたのは幸いでした。
「まともなベッド」とはどういうことかと申しますと、昔のYHは夏の繁忙期は(YHによるが)ベッドが満員だと食堂や廊下にも布団を敷いて寝かされるという事が普通にあったのです。
特に北海道は多かったのでは?と思います。 YHによっては食堂や廊下で寝る場合は100円引きとかもありましたね。
つまりベッド数をかなり上回る寝具が用意されていたということです。
YHこまどりハウス=稚内YHはずっと営業しているのは知っていたので、昨年末で閉館というのを知った時はかなりのショックでしたね。
モシリパユースホステル
ここは稚内駅からほど近い場所にある居酒屋を改造したYHです。
ペアレント(管理人の事です)は大阪出身の方で北海道大学に進み、その後大学の地が縁かどうかは分かりませんが、このYHを開いたのです。
ペアレントは物静かでとても感じが良い紳士で、色々なことを教えて下さいました。
でもあまり前に出るのは好きな人ではなかった印象があります。
このYHは駅からも近く、建物自体は古くても内装はきれいだし、食事も良いなどとても居心地が良いYHでした。
なぜか頭から離れない思い出として以下があります。(いずれも下らない内容ですが)
・真冬の厳寒期に泊った時にペアレントが外出してるか何かですべてを任されていたヘルパー(YH内のスタッフの事)がうっかりして一部の水道を凍結させてしまった。
北海道の古い建物は冬季は就寝前または2日以上家を空ける時に必ず水抜きという作業をしないと、翌朝水道管が凍結して水が出なくなるだけでなく、最悪の場合水道管が破裂して大惨事になることがあるのです。
(新しい建物(または設備)では水抜き作業は何もしなくてもよいところも多くあります。)
そのヘルパーは朝、「しまった~!! 凍結させてしまった!」と顔面蒼白で慌ててヤカンのお湯を蛇口や水道のパイプにかけたり、石油ストーブを水道の近くに持ってきたりして大騒ぎしていました。
でも水道の凍結はそんな程度で融けるものではありません。ましてや凍結の箇所が蛇口付近とは限らず奥の方の可能性もあるのです。
業者を頼むと相当な金額を採られるとも聞きます。
私は横で見ていて凍結をどうこうするよりも、ストーブとかで火事にならないかの方を心配していました。
結局私はその後すぐに出発したので凍結がどうなったか分からず仕舞いでしたが、まさに惨事だったと思います。
・トイレの落書き
時期は忘れましたがモシリパYHのトイレの個室に入った時に小さな字でしたが落書きが目に入って来ました。
「今日も休みだ。 嬉し屋休講」
確かこんなことが書いてあったと思います。
恐らく学生が書いたんでしょうけれど、後ろの「嬉し屋休講」とは落語家っぽく書いたんでしょうね。
ここは公園のトイレじゃないんだぞ!(公園だから落書きしてよいことはないが)と思いましたが見た瞬間「ぷっ」と噴出してしまいました。
さてモシリパYHは2017年4月現在でも休館中となっていて再開の日程が出ていません。
どういう理由かは全く分かりませんが、昨今の全国のYHの状況を鑑みるとかなり心配です。
早く再開してまた多くの旅人の思い出の一助になって欲しいと切に思います。
1975年(昭和50年)の稚内の観光地図
前述したように私が初めて北海道を旅したのは1976年(昭和51年)の8月でした。
その時に持って行った旅行ガイドは大切に今でも取ってあります。
その中から稚内市関連の地図などを載せておきますのでご覧ください。
いずれも「実業乃日本社」発行の「ブルーガイドパック 1北海道50年版」からの抜粋引用です。
(クリックで拡大します)
↓赤で囲んだのが当時のYH(私が加筆しました)
↓稚内中心街(YHはこの範囲にはない)
↓同ブルーガイドパックの稚内説明文より
↓おまけ 1977年(昭和52年)9月23日に高度1500mから撮影した稚内駅付近。
随分引込みの線路が多かったんですね。今では分岐もない1本だけですが。
引用元: 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
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『稚内ユースホステル』初代はGoogleストリートビューで見ると同じ地に家屋はあるようですが、ユースホステルとは別の建物なんでしょうかね。
2代目の施設には自分も宿泊したことがありますよ。
結構大きな建物だったと記憶してますが、閉館後、あの大きな建物はどうするつもりなんだろう?。
ちなみにここは元々『ユースホステル喜登旅館』として開業していたペアレントがこの地にもユースホステルを開設し、その後こちらの経営に専念したものみたいです。
あと『稚内モシリパユースホステル』はペアレントが市議会議員議長に就任されてから休館となっているようです。
ホームページで経営者を募集しているのですが、手挙げる人がいないのか、再開できない状況がずっと続いてます。
閉館とはしていないので、議長としての任期が終われば再開する腹積もりはあるものと勝手に推測しています。
んにゃ様
コメントありがとうございます。
ユースホステル喜登旅館は名前はあちこちで聞いたことがありますが、私が北海道に通いだす前の時代です。
でも喜登旅館には泊まったことがあります。
1980年代最後あたりかなと思います。
かなり古い建物でしたがお風呂はとてもくつろげて気持ちよかったと記憶しています。
>ペアレントが市議会議員議長に就任されて・・・
→これは知りませんでしたしびっくりです!
ここのPはYHにとても情熱を持った人でご夫婦で頑張っていたからです。
とてもYH以外に手を出すとは思えません。
もしかしてYHの経営が上手く行かなくなり、様々なことを模索していた時に議員の話が出たのでしょうか?
ただあくまでも私の考えですが、再開は難しいと思うのです。
稚内は訪れる観光客数に対して宿泊設備はややオーバーしていると聞いたことがあります。
先日のニュースでは稚内駅前の老舗のホテル、「サンホテル」が閉館となる、と出ていました。
全日空ホテルなど他の設備、そして訪れる客数などから太刀打ちできなくなったそうです。
私はこのホテルに泊まったことがありますが、本当に駅前なので便利でしたし、残念に思います。
今、そしてこれからは大都市にある「○○青年館」みたいなところしかYHとして残れないのでは?と思ってしまいます。
たしか中〇淳△助さん・・・でしたか?
30年位前(YH開業当初くらいですたぶん)に
「北海道新聞」のコラムに「地域産業と観光業」について
ご意見を書かれていたことがありました。
よくは覚えていないのですが、自治体が
「観光業をメインにしたら危険である・後戻りできない・覚悟が必要?」
の旨の内容で、よく考えたら、今の北海道全体に警鐘を鳴らされていたのかと…。
そのとき読んで頭に入ってきた感想なので、論旨違いだったら申し訳ないのですが、
(こういう表現が適切かはわかりませんが)文章を拝見して、
とても頭の切れる方だなと思いました。
できれば、ご本人さんにあの頃のことをお聞きしたいなとは思います。
市会議員さんになられていたんですか、初めて知りました。
・・・情報ありがとうございますはじめっち
山陰に自転車旅する時に、親に「せめてYHに…」と言われて、
会員になって(偵察がてら)初めて泊まったのが、
「モシリパ」(標津崎無異は『モシリバ』)っす。
持ってたYHのイメージしていたのとは、ちょび違っていたのした。
2回目に泊まった時は連泊して、ハマナスやコケモモ採集とジャム作ったのす。
・・・この企画にはハマったのすゆたか
はじめっち&ゆたか 様
コメントありがとうございます。
そういえばPさんは頭に「中」がついていましたね。
うろ覚えで蘇ってきました。
印象は品がよく知的な感じでした。
でも市会議員は本当に驚きです。
もの静かな中にも秘めたるYHへの情熱をお持ちだったと私は勝手に思っていたからです。
でもまだ公にしていないYHや旅への熱い思いをお持ちなんだと思います。
先日、塩狩温泉YHのページに投稿させていただいた横浜の洋輔です。
1969(昭和44)年の8月、高1生の時に鈍行列車を乗り継いで日本一周をした際、稚内の喜登旅館YHを予約したところ満室で断られ、抜海YHを紹介されました。
今では、最北の秘境駅として時々マスコミにも登場する抜海駅ですが、YHへは駅前からタクシーで行きました。(昔は、こんな秘境駅にもタクシーが常駐していたんですよ)
THでは、佐野さんとイカリさんという二人のおばさんが世話をしてくださり、僕が横浜へ戻ると、佐野さんから名産の利尻昆布がタップリ届いて大感激! その荷札には、土木現業所官舎と記されていました。
手元にある当時のYHハンドブックには、抜海YHの記載はありません。カニ族などが北海道にあふれていた時代なので、たぶん、臨時の施設だったのでしょう。
それから8年後、新婚旅行で稚内を訪れた時に抜海へも立ち寄りましたが、建物は残っていたものの、人の気配はありませんでした。
そんな抜海YHのことをご記憶の方、いらっしゃいませんか?
浜のヨースケ様
コメントありがとうございます。
抜海YHは聞いたのも今回が初めてでした。
私が初めて北海道に行ったのは1976年8月ですのでその前でしょうか?
それともごく短命のYHだったのかな?
喜登旅館YHは名前は知っています。
途中からYHを止めて旅館だけになっています。
喜登旅館は1986年頃に泊まったことがあります。
すごく古~い旅館だったとだけ記憶しています。
今もあるのでしょうか?