北海道の民宿 夢舎
小学校校舎を使った民宿・夢舎
北海道、道東の小利別(しょうとしべつ)というところに夢舎(ゆめや)という民宿がありました。
ここは古い小学校を譲り受けて民宿にしたものです。
私が宿泊したのは1984~1986年で、数回行っています。
きっかけは道内のユースホステル(以下YH)で知り合った人が「面白い宿がある」と教えて下さったからです。
最寄り駅は当時の国鉄・池北線(ちほくせん)の小利別(しょうとしべつ)という無人駅で徒歩3分くらいの便利なところにあります。
(国鉄池北線はその後、第3セクター運営の「ふるさと銀河線」に生まれ変わりましたが結局は全線廃止されてしまいました。)
ここは陸別町(りくべつ)という街なのですが日本一寒いと言われているところです。
建物はかなり古い小学校を利用したもので全て木造です。
二重窓ですが冬は大変な寒さで長い廊下などもあるので館内全体が冷え切っている感じでした。
日本一寒い街ということで、それをウリにしたのが夢舎でした。
どういう事かと申しますと、「冬でも寝室には暖房を入れない」のがウリなんです!
寝室は広い教室で、黒板もそのままです。
木造のベットがいくつか置いてあり、ここで寝るのですが部屋には暖房装置自体がなく移動可能なストーブも寝室に置くほど台数がありません。
初めて泊ったのは真冬の厳寒期で、外の温度計が-33度だったのを覚えています。
寝室は恐らく-5度以下(もしかしたら-10度くらい)になっているはずです。二重窓でも古い木造ですから隙間風もありますし暖房を入れないので部屋自体が冷え切っています。
ではどうやってこの部屋で寝るかですが、まず布団は何枚でも貸してくれます。それと湯たんぽを貸してくれるのです。
そして寝る直前まで食事をしたりする暖房の入った別室で過ごしているので寝室に戻ると同時に布団に入れば寒くなく眠れます。
湯たんぽはとても暖かく、布団も分厚いのを何枚もかけて寝るので夜中に暑くて湯たんぽや布団を蹴とばしてしまうのです。
そうすると寒さで目が覚めます。布団は掛けなおせば良いのですが、床に落ちた湯たんぽを拾うとカチカチに凍っています。
ですから湯たんぽは使えません。また掛け布団の襟の部分が息で凍っているのも分かります。
寝る前の注意事項として「水物は寝室に置くな」と言われます。
シャンプー、リンス、コンタクトレンズの洗浄剤も凍ってしまうそうです。
そして寝る前、もしくは寝た後でも「暖房無の部屋は耐えられない」という人は食事などをする暖房のある部屋で寝かせてくれます。
食事をする部屋は確か職員室ではなかったかと思います。
なお暖房は全て薪ストーブでした。私も連泊して巻割を手伝いました。
宿の人はこういう「ウリ」の部分をちゃんと説明してくれて、暖房のある部屋で寝てもOKと言ってくれますが、きちんと話を聞かない人は「金を採っておきながら暖房のない部屋で寝かせるとは何事だ!」と怒る人もいたそうです。
私は冬いつ行っても暖房無の部屋で寝ましたけれど、寒くて眠れなかったという事はありませんでした。
最新の小利別付近の航空写真を以下に載せておきます。夢舎の建物は残っています。
(クリックで拡大します)
引用:Google mapに加筆・切出し
小利別駅跡にはしゃれた建物が建っていますが、私が通っていた国鉄・池北線時代には無かった建物です。
また線路跡南北にずらっと並んだ四角い形状のものは全てソーラーパネルです。
それ以外は30年前と付近は変わっていません。
強烈な個性の民宿・夢舎
「ユース民宿」という言葉をお聞きになったことはあるでしょうか?
簡単に言えば「ユースホステルっぽい民宿」ですが、つまり日本YH協会に所属せず、お酒も飲めて(1980年代まではYHは飲酒厳禁だった。今も一部ある)、YH協会が定めた諸規則に束縛されず自由にやっている民宿です。
(ただし家族以外は男女別相部屋は鉄則)
別にユースという名前がくっつかなくてもいいんですが、(実際にユース民宿と名乗っているところはない)泊まるとYHみたいに夜ミーテイングをやって踊って歌ってバカ騒ぎなどをやるところが多いです。
夢舎はまさにユース民宿の類でした。
経営者は千葉県出身の方で親がやっていた保険代理店を畳んで夢舎を開いたと言っていました。
男の子が二人いたと思います。
校舎の補修、家具、ベッドなどは地元の人がボランティアで修理・作成してくれたとのことです。
小利別は何もない街で、今地図を見ても当時と何ら変わっていません。
商店はありませんし、買い物となると北に40km離れた北見市まで行くとか。もっと手前でも小さな商店はあるそうですが民宿なのでまとまった食材を買わなくてはいけないし、留守にする時間も長くとれないのでまとめ買いをしているそうです。
南に15km行った陸別町の中心街に行くこともあるにはあるそうです。
さて夢舎はユース民宿ですのでヘルパーもいます(ヘルパーとはYHで住込みで掃除や食事を準備をする人。ほとんどが学生ボランティア。)。
その他にもYHに似ている、似ていなくても強烈な個性のある宿でした。覚えている範囲では以下の思い出があります。
・はっきり覚えていないが1985年当時で1泊2食で3300円くらいだったと思う。当時の普通の民宿や旅館と比べても破格の安さだった。
・連泊しても陸別中心街や北見市に出ない限り何もやることがない。観光資源は「何もない大自然」だけで温泉もない。1日昼寝をしたり付近をブラブラ、或いは巻割を手伝って1日が終わる。
・連泊して昼飯をどうしようかと悩んでいたら、いきなり「昼ごはんだよ」と呼ばれる。そして食べる。「いくらですか?」というと「忘れちゃった」とか「あれれ?」とかわけのわからない事を言われて結局一切請求されない。出発日の朝に再度聞いても同じ結果。
つまり払わなくてもよかったらしいし、向こうも取る気も無かったようだ。
・当時夢舎には独特の通貨単位があった。日本円の1円を1カツドンという。特別「カツドン」という紙幣や硬貨があるわけではない。
支払う時に「はい1000カツドンです」といった具合に使う。
・夏は裏庭でドラム缶風呂に入れる。貴重な体験だったが入るのも出るのも面倒で体を洗うのも大変なので一度経験すればもう結構と思った。
・連泊していると知らぬ間にニックネームが付けられている。最初は「〇〇さん!」だが私の場合は2日目の夜くらいからいきなり「フランケン」と言われた。別にフランケンシュタインに似ているとは思わないんだが、夢舎の人からするとそう思ったのか、出発日までずっと「フランケン」と言われて宿泊費の領収書にも「フランケン様(〇〇様)」と書かれていた。
・ユース民宿でも夜は特別にYHのミーティングみたいなことはやらなかった。ギターとかはあったけれど、お茶や少々のお酒を飲んで静かに話すという感じ。まあ歌う事もあったのかもしれないが。酒代を請求された記憶がない。
当時YHを利用していた人でもちょっと引いてしまう、という強烈な個性の民宿でした。
いつの間にか営業休止になり、南の陸別町中心街に近いところに移転したそうですが、でも2017年4月現在では休館だそうです。
最新の詳しいことは分かりません。
私は夢舎以外はいわゆるユース民宿は泊まった記憶がないんですが、相当強烈な個性でしたが忘れられない思い出になりました。
昔から聞くところによるとユース民宿の類は北海道と沖縄が多いそうです。その他は離島の宿ですね。
何となくわかる気がします。YHは全国にありますが、北海道と沖縄は独特な旅人に人気の宿が揃っていたので自ずと民宿もそういう変わり種が増えるのでしょう。
独特な旅人、というのはリュックを背負って何ヶ月も(人により何年も)旅をする人や普段は会社員や学生をやっていて2~3泊の旅行でも人が行かない、泊まらない場所を選んでマニアックな旅を愛する人などの事を言います。
私が撮った写真は押入れの奥底なので写真は他サイト様をご覧ください。
(リンク切れはご容赦下さい。)
スポンサーリンク
今ではYHをはじめ、どこにでもあるみたいですが、
当時は閉校した学校校舎を宿泊施設にした、パイオニア的存在だったと思います。
(岩手県玉川村のYHが最初かもしれないですが…)
(現役校を含め)閉校した校舎は自転車での給水ポイントにもなるので、
(今は諸事情で不可能に近いですが)よく利用させていただきました。
当然、小利別さんにも行ったことはあるのですが、
すでに宿泊施設だったということと、表題通り、
「強烈な個性」の施設ということで、泊まることはおろか、水一杯貰う勇気がなく、
遠くから眺める…という程度でした。
・・・恥ずかしがりやなもんで…はじめっち
今では天文台の近くに転居されたと聞いています。
1965年閉校の校舎や屋体ですから、限界だったのかもしれませんね。
・・・一回くらいは泊まってみてもよかったかも…みならいかのん
あたいはむずかしいことはよくわかんないけども、
YHや徒歩?民宿に酒を差し入れたりすると、すんげぇ喜ばれるらしいのだ。
・・・飲む連中の気持ちが全くわからんのだつるみんあたいはお菓子派なのだ
「金取っておきながら~」ってば文句言う輩は、
全く理解できないでんす。経験値低すぎるのっす。
ちゃんと調べろっす。むしろ3000円で命永らえたことに感謝しろっす。
・・・あはは…ちょびズレてるっすか?ゆたか
はじめっち&みならいかのん&つるみん&ゆたか様
皆様コメントありがとうございます。
>「あほのいたずらくがき」の犠牲者・・
→大いに歓迎です!というか皆様の「あほのいたずらくがき」が無い日は一人部屋の片隅で泣いています・・・(笑)
あと私も旧型客車は大好きです。
>「強烈な個性」・・・勇気が無く・・・
→わかりますね。夢舎を泊まる前でもYHは相当泊まっていましたが、夢舎に行くと圧倒されましたから。
YHを知らない人が初めて行くとその個性などにびっくり仰天だと思いますが、そういう人でもユース民宿は鳥肌が立つと思います。
まだまだ夢舎はユース民宿としては可愛いほうだったようですよ。
>金取っておきながら・・・
→こういう人はYHや民宿以外にも多いですね。
最初から高額でそれなりのサービスを前面に出しているところだったら文句言っても当然ですが、例えば回転寿司で「なんだこの握り方は! ネタも小さい!」とか喚いているジジイを見たことがありますが、私はそういうジジイにはなりたくないな、と思いました。
皆様また来て下さいね。
すんませんなのだ、貴ブログ文末の他サイトの案内にクリックしたら、
はじめっちとゆたかが、よだれたらしながら閲覧してるのだ。
どうやら、「木造校舎」だけでなく「旧型客車」も大好物らしいのだ。
貴殿のみならず、また「あほのいたずらくがき」の犠牲者が増えてしまうのだ。
・・・誠に遺憾に存じますのだつるみん
初めまして(だと思うのですが…)
私もその頃に時々行ってました。
コードネームは「2秒」です。
たまたまここに辿り着き、つい書き込みました。
遠い想い出になってしまいましたが、懐かしいです。
連泊者が実に多かったですね(笑)
たまたま泊まったら、同じ小学区の一つ下の客に出会ってしまったり、3月の夜遅くみんなで星を観に「おじいさんの木」までみんなで行ったら、お風呂上がりの女の子の髪の毛がバリバリに凍っていたとか、想い出はつきません。古事記さん、どうしているでしょうね。
2秒さま
こんにちは。コメントありがとうございます。
>連泊者が・・・
→そうですね、連泊者だらけでした。
私的にはYHで連泊者や常連が多くいるところは大嫌いで絶対に避けるのですが(1度行っても次回から行かないとか)、夢舎だけは別でした。
一部のYHのようにイヤな常連や連泊者はいなくて、いつもとても楽しいひと時を過ごせました。
とても皆さんフレンドリーでしたね。
>おじいさんの木
→うわぁ~、なつかしい! 冬だと強烈な環境なので建物を1歩出たら覚悟が必要でしたね。
>古事記さん
→すっかり名前を忘れていました。
そうですね、どうされているのでしょうか。
もうけっこうなお年(私も)だと思います。
「2秒」さまのお名前は恐縮ながら覚えていないのですが、時期的に私と会っている可能性が大だと思います。
顔は覚えていなくても同じ時を共有したのでしょうね。
なんか心にじ~んと来ます。
ご訪問ありがとうございます。
またお越しくださいね。
こんにちは
ここはトホの宿の冊子で知り、90年代に1回だけ泊まりました。昔ながらのタンク状のペチカが印象に残ってる。宿主は落ち着いた人で、山男みたいにヒゲをはやしてた。今なら60代になってるでしょうか。周りには何も無い田舎校舎宿の窓からは線路が見えて、深々とふける夜を銀河鉄道のように彩ってた。当時も今も私には道東は遠く、それっきり忘れてましたが、そうですか閉められたんですね。今もあればきっと人気宿になっていたことでしょう。
内藤隼人さま
こんにちは。コメントありがとうございました。
ここは落ち着けるけど本当に何も無いところでしたね。
それがいい、と感じてくれる人が今だったらどのくらいいるのか・・・?
でも隠れた人気の宿として密かな人気宿になるのは間違いないことでしょう。
また当サイトにお越しくださいね。
はじめまして。
YHやとほ宿に泊まり始めてまだ3年目の若造ですが、初めて泊まった十勝の某とほ宿が良い意味で忘れられず、年に数回泊まり歩いている人間です。
元々廃校に興味があり、この世界にハマる以前から廃校を利用した宿が小利別にあると知り、いつか行ってみたいと思っており昨年の9月にようやく訪れることが出来ました。
校庭こそは定期的に誰かによって最低限の草刈りがされているようで自然に還りつつある、という状態ではありませんでしたが、周辺の教員住宅等含め建物は使用されている形跡は全くなく、荒れるに身を任せている状態でした。
校舎は鍵が空いていたのでこっそり覗いてしまいました。勿論入りはしませんでしたが。中は散らかった物置状態となっており、宿で使っていただろう輪飾りが半分色あせた状態で放置されていたのが印象的でした。
建物の所有権がどういう状態(宿主が町から買い取ったのか、それとも所有権は町のままで、宿主に貸す体形を取っていたか)かは分かりませんが、おそらくどちらであっても建て直す、もしくは取り壊す財力もないのでしょう。みんなの思い出の場所がこういう形で放置されていることに強い寂寥感を覚えました。
高速道路の建設が進んでおり、ついこないだ小利別まで出来たかと思えば、陸別方面の建設が急ピッチで進んでいます。訪れた日も祝日でしたが、重機の動作音が鳴り響き、近くの道路は頻繁に砕石を乗せたダンプトラックが往来していました。他方隠れ家人気のあった喫茶店が昨年廃業し、小利別の観光スポットは駅跡しか無くなってしまいました。この駅跡だってあと十何年綺麗な状態を保っていられるか。時代の流れは残酷ですね。まだ小利別が、夢舎が元気な頃に、1度でもいいから訪れたかった。
当時のことが書いてあるブログや資料をずっと探し求めていました。本当にありがとうございました。
コ・ニャンコ博士様
こんにちは。コメントありがとうございます。
廃校とかは私も興味があります。北海道にも多いですが訪問可能なのは夏だけ、その夏も草や虫、時にはヒグマの出没を考慮しなくてはならないので訪問が難しいですね。
小利別は私はかなり長い事行っておりませんが、様々な記事や資料を見ると今や絶望ともいえるほど「何もない」場所になっているようです。(元々何もないけど)
夢舎は最初(私の記憶が正しければ)小学校の校舎は無償で譲り受けたと聞きました。
ただし所有権がどうのこうのは分かりません。
とにかくこの廃校を好きに使えよ、と。
そしてはっきり覚えているのは夢舎で使うベッドや椅子などは地元の人が協力して木で手作りしたという事です。
地元の方々は夢舎のオープンを大歓迎してくれてあらゆることを無償で協力してくれたと話を聞きました。
このような「ユース民宿」は夢舎以外は泊まったことはありませんが、他にもいくつか知ってはいます。
でもどこも恐ろしく不便で観光地でない場所ばかりなので長く続けるのは相当難しいと思います。
夢舎だってどう考えても真っ赤か経営のはずだったと思うのです。
ただユース民宿で共通して言えることはオーナーが「夢にあふれている」ということです。
世間では「夢だけで食えるか!」と怒られると思いますが、彼らは30代になっても40代(以上)になっても夢を追い続けてユース民宿をやったのです。
そういう気持ちっていいなと思います。
自分にはできませんが、そういうオーナーの気持ちからパワーを今でももらっていると感じるのです。
ところで北海道は無駄な高速道路ばかり作っています。
しかも道央道や道東道などから外れた高速は殆どが無料開放されていて、数㎞走っては一般道に戻りまた数km走って高速に戻るとかの意味不明な区間ばかりです。
道北の名寄バイパスや豊富バイパスなども無料で短い区間ですが所要時間は一般道と変わりませんし、「いつの日か道央道と繋ぎ札幌から稚内まで行ける」と謳い文句がありますが本当に「いつの日か」分からない状況です。
税金の無駄もいいところですね。
当サイトにお越しくださいましてありがとうございました。
他にもYH関連や北海道関連の記事がたくさんありますので今後もごひいきにお願いします。
コ・ニャンコ博士さま
低温マニアのコ・ニャンコ博士でしょうか。昨年2月9日の江丹別−36度の際、札幌在住の当方はツイートを拝見しつつ、どこへ行こうか考え、江丹別を目指したところ、大当たりでアメダス記録の0655には江丹別におりました。今年はここまで強烈な冷え込みはなくて寂しいですね。
懐かしいです。年末年始は必ず夢舎に居ました。当時の仲間たちはもう50歳代後半、60歳代かな。こっそり再訪しているのかもしれません。数年前に「古事記さん」がテレビに出演していて驚きました。印象は昔と全く変わっていませんでした。最後に訪問したのは新婚旅行(国内編)で嫁と行ったとき。もう20年くらい前です。懐かしいお話ありがとうございました。あだ名「フランケン」当時聞いたことがあるような・・
ワコール様
こんにちは。コメントありがとうございます。
これほどユニークで強烈な宿はなかなか見当たらないと思います。
様々な思い出を作ってくれた夢舎に感謝です。
古事記さんがTVに! 驚きです。
どうされていらっしゃるのでしょうか?
もう70代くらいかな?
こちらから質問です。
「ワコールさん」というハンドルネームは夢舎でも使っていましたか?
もしお使いであれば私は夢舎でワコールさんと何度もあってお話もしています。
時期は1984~1985年くらいです。
もしそうであれば(そうかもしれなければ)、恐れ入りますが当サイト一番上のタイトル直下の「お問い合わせ」からメールを頂けないでしょうか?
このお問い合わせからであればサイトで一切公開されずプライバシーは保たれます。
あなた様かどうかは別として夢舎でワコールさんのお名前を聞いたのをはっきり覚えています。
よろしくお願いいたします。
スイマセン。お返事の書き込みを見たのが今です(汗
やはり貴方でしたか・・フランケンさん。
今でも夢舎の古い仲間とは年賀状でやりとりしています。ずいぶんと数が減りましたが。古事記さんは町政に関わっていると噂で聞いています。古事記さんからの年賀状は毎年来るのですが近況が書かれていないのですよ。
ワコール様
こんにちは「フランケン」ですよ。
覚えてくれていてうれしいです。私も若かりし頃のワコール様のお顔をはっきり覚えています。
今会ったら全然わからないでしょうけど。
私は当時横浜市に住んでいましたが、北海道で知り合った方(道民です)と結婚し、しばらく横浜市にいてから10年ほど前から札幌市におります。
いい年したおっさんになり、人様の親にもなり、毎年ポンコツ街道まっしぐらです。
古事記さんも今はおいくつなのでしょうか?それなりのお年ですよね?
当サイトには懐かしい「あの日、あの物」がたくさんあります。ぜひまたおいで下さいね。
コメントも歓迎です。
ワコール、元気ですか。札幌在住者はC作とかさとみちゃんとみんな元気です。もう一昨年ですが、みんなでこっそり夢舎に行きました。べんがるは親の介護のため京都に戻ってます。そんな年代になりました。
お二人ともお返事ありがとうございました。。
ベンガルとは年賀状でやりとりして、正月明けに近況を記した手紙を頂きました。我々の世代、いろいろ転機を迎える年代になりましたね。
昔の夢舎はもう人が住んでいないのでしょうね(木工作家さんが一時期棲んでいたとか)。
一昨年、家族旅行で札沼線を乗りにいって、礼文島まで行きました。夢舎での交通事故仲間(?)だった エミリーは星観荘の女将さん。礼文を家族で歩き回りましたよ。息子も北海道にはまりかけています笑
>コメントも歓迎です。
心臓の手術のページ。大変参考になりました。
この歳になると、ホントいろいろ出てきますね。
夢舎で検索すると、「横浜のぽっぽ屋」のサイトがでてきますが、これは京急の運転手「ヤクザ」さんですよね?
かとうあつし様
貴君の書き込みノートを見つけた。笑
昭和61年5月4日
多分、それより前の日付のものもあるはず。
ところで名寄勤務はいつ頃でしたっけ?
C作の書き込み 1985年12月29日
まだ千葉習志野の住所、
となりのページは モコちゃん、クマさん(鬼籍に入ってしまったのですよね)、のぶおちゃん、活字、くぼたひろし、ぽっちゃっん、トシ、やまだたかし、しのぶちゃん、すのこ・・・
「フランケンさん」を捜索中。いつ頃お逢いしましたでしょうか?どこかにあるはず
わこーる様
こんにちは。「フランケン」です。(笑)
初めて夢舎に行ったのは多分1984年の末~1985年年明け付近だと思います。
その後夏に行ったのは1985か1986年の8月だったと思うのですが。
もし記録が残っていればうれしいです。
お返事ありがとうございました。
1984年の年末年始ではないでしょうか?
ただ本名で皆、ノートに書いているので渾名ではわかりませんでした。K坊、みゆきちゃん、春日井、山本、さんとう、まめたん、ザボンが居たときですね
わこーる様
コメントありがとうございます。
1984年の年末年始は当たっています。本名はこのコメント欄では書けませんが、サイトタイトル直下の「お問合せ」からご連絡頂ければお教えすることも出来ますよ。
他のご訪問者様ともこのお問合せを利用した様々なやり取り、郵便物の送付などをしています。
でも「フランケン」で書いたと思うんだけどな・・・?
K坊、みゆきちゃんの名前は何となく憶えています。
記念のノート書きなど見て、いろいろなことを思い出しましたよ。夢舎の年越しもあの頃が一番楽しかった。当時撮った写真も皆 実家にあるので、写真を見ることができませんが、おかげさまでいろんなことを思い出しました。そんな機会をいただきありがとうございました。
わこーる様
コメントありがとうございます。
いえいえこちらこそ36年ぶりくらいに思いがけない人と再会できてとてもうれしいです。
ちょっとしたブログでもこんなことあるんですね。
わこーる様以外にも数人本ブログで再会できた人がいます。皆長き年月が経過しても覚えてくれていました。
本当に感謝です。
これからもよろしくお願いいたします。
皆様
この掲示板でははじめましてです。支笏湖ユースの3月末閉館を知り、昔を思い出し、「夢舎 べんがる」で検索したらこちらにたどり着きました。(自分で探すなよなと突っ込まれそうですが)
夢舎さんには昭和57年の夏に初めて泊めていただきました。それ以降年賀状のやり取りや地元が京都なので、関西夢舎会(その筋ではありません)と名乗り、月1ぐらいで集まり遊んでいました。
大学を卒業して念願の北海道生活を始めると、旅仲間からは北海道残留孤児とうらやましがられましたが、両親の介護などで一昨年末に実家に戻り、家庭内の諸事を解決していってます。(か〇〇生命から数百万円の返金もゲットしました)
夢舎さんが閉館しても何度か遊びに行きました。
校舎で無くなっても学生時代から通算で100泊以上はしているのでたくさんの想い出が今も蘇ります。
都合により、先週末に退職したのですが、4月からはまた新しい職場が決まりました。
夏には一度北海道の自宅に戻れればよいのになと考えています。
では、落ち着いたら再訪しますね。この場を提供してくださった方に感謝です。
べんがる様
当サイト管理人のノンダクレーです。ご訪問とコメントありがとうございます。
100泊以上ですか!すごいですね。まさに知り尽くしていらっしゃると思います。
このサイトは多くの「あの日」、「あの時」、「あの物」を語るサイトです。
どうか今後もよろしくお願いいたします。
陸別の鹿肉を買おうと思ってPCを触っていて..
ここにたどり着きました。
ワコールさん、ベンガルさん(聞き覚えがあるのでご一緒させていただいたことがあるのでは)、2秒さん懐かしいお名前です。
85年3月、GW、10月そして86年3月に50泊ぐらいしていたと思います。
先日、顧問先に電話しようとして、01562・・・・・と電話していて慌てて切りました。覚えているもんだなと思いました。
皆様のやり取りがつい先日でしたので、足跡だけ残させていただきました。また来ます。
ノンダクレーさん、ベンガルさん、マングースさん(懐かしい!)、カキコしてないけど夢舎訪問た皆様、お元気そうですね。
マングースさん、覚えていますよ。笑
先日、実家に帰省したときに、レコーダーに残っていた古事記さん(テレビに出た)の映像見ました。白髪も増えていますが、喋り方も変わらず元気そうです。2人のこども達もももう40歳代では?「花さん」もどこでどうしているんでしょうね・・・
ワコール様
こんにちは。古事記さんは70代前半か後半でしょうか?
子どもたちも40代?そうかもしれませんね。
時の流れ・・・、仕方ありません。私もクソジジイです。
またサイトにお越しくださいね。
ノンダクレー 様
べんがるです。
古事記さんはねずみ男の次の干支で、
アラセブンティだったはずです。
旅から遠ざかり、週4日非常勤で働きながら、月曜日は親の通院補助と私自身の通院に明け暮れています。
旅人に戻れるのはいつのことやら。
愚痴っぽくてごめんなさい。
また来ます。
べんがる様
こんにちは。コメントありがとうございます。
夢舎でのハンドルネーム「フランケン」ことノンダクレーです。
古事記さんはやはりそういうお年なんですね。
私が夢舎に行ってから大分経っているから当然ですが、やはり年月はちょっと残酷かなと。
私も日々ポンコツになって来ています。
4年前は心臓手術で28日入院し、あと1日遅れていたら死んでいたかもと言われました。
幸い今は元気に復活して何も生活に支障はありませんけど。
(この手術の記事は当サイトの「イヤな思い出」のカテゴリにあります。)
でも年を取るのは全人類平等ですから仕方ありません。
コロナが収まったら1泊でも旅に出たいと思います。
また当サイトへお越しくださいね。
私は別の道東のYHによく泊まっていましたけど。夢舎さんも大好きで5-6泊したかなぁ、と思います。あの頃の旅のお友達同士の雰囲気は、どこも一緒ですね。35年とか経ってみんな環境も変わって、でも、あの頃の思い出はつい昨日のように蘇るもので、こういうページを読んでいると、気持ちがほっこりします。皆さま、ありがとうございます。お互い健康には気をつけて、コロナが終わったら度に出かけましょう...
通りすがりの宿泊者さま
こんにちは。コメントありがとうございます。
とんでもない年月が経ってしまいましたが、やはりあの当時の思い出は
まるで昨日のようですね。はるか遠い昔なのに思い出すと嬉しいし、気持ちがウキウキ
して元気になります。
私も早く旅に出たいです。
当サイトには様々な「あの日」がございます。ぜひまたお越しくださいね。
1986年大学を卒業する春休みに1泊の予定でしたが連泊となりました。シバレフェスティバルに参加する事になり、バルーンを凍らせた、かまくらに泊まり、翌日は『人間ばんば』に出場しました。チーム名は、『ナイチーズ』でした。今年の5月に37年間辞めずに勤めた会社を定年になります。そんな時、夢舎を思い出した次第です。
ブリヂストンより 様
こんにちは。コメントありがとうございます。
人間ばんば、名称だけは覚えていますが未経験です。
あの頃は面白かったですね。一般のユースも全盛期だったので、その関係でおかしな連中が夢舎にも集まってきて…
(私もその一人ですが)
お仕事お疲れ様でした。
私もですがある年齢以上になると様々な事を思い出して気持ちは複雑です。
でも明日からまた楽しいことを見つけて行きたいと思います。
また弊サイトにお越し下さいね。