チョークで道路に書いた落書き
誰でもやった道路への落書き
男女問わず道路へチョークを使って落書きをした思い出はあるのではないでしょうか?
私のようなおっさんはもちろん、最近の子どもも当たり前のようにやっています。
それどころかイベントに行くと「道路(地面)に絵を描こう!」なんていうコーナーもあり、チョーク使い放題という子どもにとっては天国のようなこともやっています。
世代問わずシンプルだけど心に刻まれた思い出。それがチョークでの落書きだと思います。
道路への落書きは食事もお菓子も忘れるほど夢中!
この落書きをやり始めたら止まりません。
親に「ご飯だよ」と呼ばれても大好きなお菓子がある、と言われても一度書き始めたら途中で中断なんてありえない、という人が多かったのではないでしょうか?
(もちろん大好きなお菓子、アイスなどを見せられたら中断する子どももいたとは思いますが)
私の子どもも夢中になると声をかけても知らん振りで落書きを書きまくっていた時期がありました。
まさにこんな感じですね↓
どんな落書きを書いていた?
上記の写真のように極めてたわいないこと、女の子だったらお人形(?)、お姫様、男の子だったら飛行機や電車などの乗り物とかが多かったと思います。
私は幼少期から現在に至るまで「鉄」(鉄道ファン/マニア)なのでチョークで線路ばかり書いていました。
でも駅のホームはあまり書かなかったんです。
自分でも理由がわかりません。
幼少のころ私が線路を見て吸い込まれるように何時までも見ていたのは「ポイント」でした。
つまり線路が分岐する部分ですね。
↓こういう部分です。
6歳まで住んでいた場所(東京都杉並区の井荻・西武新宿線)は当時も今も踏切が多いのですが、ポイントは踏切からやや離れた場所だったのです。
当時「あのポイントがもっと踏切の近くにあったらじっくり見れるのになぁ・・・」といつも思っていたのです。
だからポイントに拘っていたのだと思います。
またホームの他、男の子が真っ先に描きそうな電車の絵も殆ど描きませんでした。
ひたすら線路とポイントです。
線路なので書き出したらキリがありませんが、途中で反対方向のカーブを入れたりしてバリエーションを付けて、ある程度満足出来るまで書いたら、その上を自分が電車になったつもりで走ったりしました。
(↑可愛かったですね・・・)
道路以外では何処に書いた?
道路以外にもチョーク一つあれば何処でも書けたはずです。
とは言ってもやたらと書いたら怒られますし、ましてや塀や壁だったら非常に目立つので子ども心にも「ここに書くと怒られる」という認識はあったと思います。
私が道路以外で書いた思い出はアパートの屋上でした。
でも私が住んでいたところではなくて月に1~2度遊びに行っていた従姉妹が住むアパートの屋上でした。
その屋上はいつでも開放されていて誰でも自由に出入りが出来ました。
でも洗濯物を干したりする場所ではないので(各戸にベランダあったし)、もっぱら屋上に出入りしていたのは9割以上が子どもで、残りは修理業者とかでした。
いつでも自由に屋上へ、なんて本当にのどかな時代だったんですね。
今では全く考えられません。
そして屋上のコンクリートの地面にチョークでさんざん落書きを書いたのです。
もちろん私は線路でした。
でもいつも最後には親に「消しなさい」と言われてバケツに水を入れて消しに行きました。
面倒なので水を撒くだけでしたので綺麗には消えません。
何もしないよりはマシというレベルでした。
でも屋上は車の心配が要らないのでやりたい放題でしたね。
本当に楽しい一時でした。
道路だと当時は高度経済成長時代だったので車の往来もそれなりに多かったのです。
あとは近所の駐車場でコンクリートの場所を選んで落書きをしたりなど・・・。
今となっては愛おしい思い出ですが、私の子どもも近隣の子どもも同様のことをして遊んでいるのを見ると微笑ましいだけでなく、「時代が変わっても変わらないものもある」と感じて嬉しくなります。(←ジジイの証拠ですね)
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道路に落書きを書くとしたら、横断歩道、△止まれマーク、30Km/h道路に大きく60とかを書くと楽しいです。
会長どうぞ!!! ピップエレキバン!!! さま
コメントありがとうございます。
でもそれをやったら完全に犯罪で捕まりますね。
せいぜい「手信号現時位置」とか「B圧力確認」、「停車駅注意」にしておきましょう。
自分の記憶では蝋石で落書きしていました、多分諏訪通りと明治通りの交差点近くの「田島屋」という駄菓子屋さんで買ったか、高田馬場の西友近くの駄菓子屋さんで買ったかです。自分は戸ニ小出身でしたのでよく諏訪神社で遊んでいました。自分と同じで戸ニから戸山中に進んだ先輩と同期のA先輩(馬場のホテル)が2年前お亡くなりなっていると兄から聞きました。とても悲しいです。
ついでに西友の隣の映画館の成人映画を中坊の頃見に行っていました。今ではライブハウスですがw
戸山中14期さま
こんにちは。コメントありがとうございます。
蝋石は私も使いましたよ。
いずれも懐かしいですね。
田島屋の名前は忘れましたが駄菓子屋があの辺にあったのは覚えています。
実は諏訪神社は私のテリトリーで、神社反対側に友人が二人ほど住んでいました。(いずれも商店)
ストリートビューで見ると諏訪神社の前の通りが驚くほど拡張されていますね。
東京のど真ん中であんなに道を広げられるものなのですね。
「A先輩」ってちょっと思い浮かばないなぁ・・・
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ありがとうございました。
えー諏訪神社テリトリーだったんすか~、でも自分はその頃には池袋に引っ越ししてます、神社に裏の米屋さんのプラッシーの酸っぱさが今でも記憶に残っています。2コ上の兄はまだその近くにいてるんでチョクチョク行ってはいますけど、、、
諏訪通りなんすけど、トンネルで山手線埼京線の下通すつもりで柱倒して山手線止めちゃったんですよ、もう10年ぐらい経つのですけど工事はそこで止まっていて、、、、道路は工事中で狭すぎて路駐もできないんです。
穴八幡神社から淀橋通りまでの連絡通りの拡幅なんですよね、その一連の再開発で池袋に引っ越したんで元は今のマルエツ駐車場辺りに住んでいました。
戸山中14期さま
再訪ありがとうございます。
懐かしいお話が連発・・・。
プラッシーよく飲んでいましたし、小学校低学年のころ(その頃は練馬でした)は家で牛乳のように定期購入していました。
今でも売っているんでしょうか?
確かに米屋での扱いが多かったですね。
諏訪神社の界隈は色々なことがあったんですね。
私は諏訪神社には強烈な思い出がありまして、6年生の時にクラスメートとお祭りに行ったんです。
(もちろん男です)
なにやら見世物小屋で「ジャングルからやって来た野性の女が生の鶏を食らう!」みたいに派手に書いてありました。
「え~!」と思ったのですが子どものお小遣いの範疇だったので友人と二人で入ったのですが、マジシャンがつけるみたいな派手なピカピカの下着?(要はブラとパンツだけです)をつけた猛烈に濃い化粧でむっちりのお姉さんがみんなの前で毛をむしっていない(死んだ)鶏を食べ始めたんです!
友人と顔を合わせて目が点になってしまいました。
会場からは悲鳴はなかったですが「お~!」とか「わぁ~!」とかは聞こえました。
そのお姉さんは口の周りも手も血だらけで凄かったんです。
こんなものは現代では絶対に出来ないし、大体やる人がいないですよね。
このことは急に思い出したので、近々これをネタに記事を書きますね。
思い出させて頂いてありがとうございました。
またサイトにもお越し下さいませ。
先輩!レス早くてうれしいです♪しかし先輩の記事って文章力や表現力とかレベル高いっすね、、、
6歳上の兄は土井まさるのテレビジョッキーに出たいがゆえに、「奇人変人」コーナーに出来もしない「ゴキブリを食べる少年」の推薦人で出てギターをもらってきましたw
食べた友人は数年体調悪くて苦しんだそうですがw
今では放送禁止ですよねw
先輩!自分は戸山中で軟式テニス部でした、明日も硬式テニスのシングルスの練習です。原点はやはり戸山中の顧問の先生だったと感謝しているのです。
先輩は部活されていたのでしょうか?
戸山中14期さま
こんにちは。いや~、あの日に戻れたような感じがして嬉しいです。
記事などについてお褒めのお言葉を頂きありがとうございます。
自分はぜんぜん上手いとは思っていません。思いつくままに、つまり「独断のみ」で書いていますので・・・。
・テレビジョッキー
見ていましたね。毎週日曜日はこれが楽しみでした。その後スーパージョッキーに変わりましたが面白さは継承されていたのでこちらも見続けました。
いましたね、ゴキブリの人。
あとネズミ食べたとかの人もいたと思います。
そちらの方はこれが原因で亡くなったのではなかったでしたっけ?
・部活
え~と私はかなり中途半端でして、1年生のときは剣道部、2年生は技術部(?)に入りました。
技術のほうはもともとラジオなどの組み立てが好きでそれが講じて入部したのです。
3年生は帰宅部でした。
実は私は2年生の夏に親の都合で横浜の日吉(東横線)に引っ越したのですが、何分小学校5年生の途中で練馬から新宿に引っ越していますし、中2後半という大事な時期で「もう転校はイヤ」ということで戸山中2年の2学期から卒業まで東横線~山手線を利用して通っていました。
住所は私だけ新大久保の知り合いか誰かの家にしたのです。
だから横浜市民になった年月が親と私はずれています。
約90分の通学時間、そして朝の東横線のすさまじい混雑は閉口しました(山手線のほうが楽)。
でも一度もつらいと思わなかったし、けっこう楽しい通学でしたよ。
色々と懐かしく目頭が熱くなります。
またきてくださいね。