初めての九州一周旅行
初めての九州旅行は心身共にリフレッシュ!
私が初めて九州を旅行したのは1984年(昭和59年)のゴールデンウィーク(以下GW)でした。
当時住んでいた横浜よりも暖かく、でも暑くはなくて半袖で心地よい程度の快適さ、GWと言えども関東近郊の観光地と異なり何処も人が少なくのんびりと楽しむことが出来ました。
当時はユースホステル(以下YH)がやや廃れ始めた時期だったと思いますが、8泊全てYHに泊まり多くの「1夜の友」と楽しいひと時を過ごすことが出来た思い出深い旅行となりました。
この旅行で泊まったYHは既に閉館したところばかりですが、当時のYHの思い出を中心に書きたいと思います。
(本旅行のすべてのスケジュールを暴露しています。もし「あ!その日そのYHに泊まった!」という方がいらっしゃいましたらご一報いただければ幸いです。本記事最下段のコメントでも良いですし、プライベートに関連した内容があれば上段タイトル(懐古趣味で何が悪い! の部分)直下の「お問い合わせ」からご連絡頂ければ本サイト上では一切公開されません。)
九州旅行のスケジュール
全旅程は8泊9日でした。
既に社会人になっていましたが、休みは比較的取りやすい会社だったので問題なく旅立つことが出来ました。
以下にスケジュールの概略を載せます。
【1984年(昭和59年)】
全行程「九州ワイド周遊券」を利用。
●4月28日(土): 東京~(新幹線ひかり)~博多~(特急かもめ)~長崎
長崎南方苑YH泊
●29日(日) 長崎~(国鉄)~諫早~(島原鉄道)~島原外港駅 島原YH泊
●30日(月) 島原港~(フェリー)~熊本三角港~三角~(国鉄)~熊本~(国鉄豊肥本線)~阿蘇~(バス)~阿蘇YH泊
●5月1日(火)霧島高原YH泊(駅前で買い物をしていたらバスに乗り遅れ、タクシーに乗った。)
●2日(水)YH宮崎県青年会館(青島)泊
●3日 (木)別府YH泊
●4日(金)別府YH→バス→高崎山と「地獄めぐり」→バス(亀川駅経由)→別府駅(北浜)→バスでYHへ。
別府YH泊(連泊)
●5日(土) YH山国屋旅館泊
●6日 (日) 山国屋→羅漢寺(徒歩)→青の洞門(徒歩)→中津駅(バス)
→特急「にちりん」→小倉駅→魚町で寿司屋に入る→
新幹線「こだま」自由席→新大阪→「こだま」→新横浜(帰宅)
上記のようにかなり豪華?な旅行でした。
(YHを利用している事自体、全然豪華ではないんですけど)
当時のカレンダーは以下となります。
(引用元:Wikipedia)
思い出深い一夜を過ごしたYHは?
何やら意味深みたいなフレーズですが、所詮当時のYHですからね。
でも言わば「YHでの禁断のアバンチュール」もあったのです・・・。
▼島原YH(4月29日泊)
宿泊日は男女合わせて10人いたかどうか、というくらいの少人数でした。
建物はいかにもYH、というものでしたが、ペアレント(YHの管理人)などからはほったらかし状態でヘルパー(YHを手伝うアルバイト)もいませんでした。
だから「禁断のアバンチュール」を楽しめたのです。
つまり・・・、そう宴会です。
当時のYHは全国ほぼすべてで「禁酒」が徹底されていました。
しかし少人数の時など、同室の人と意気投合すると部屋でコッソリ飲む、は日常茶飯事だったのです!
この日は誰からともなく「飲もう」と言い出し、YH近隣にはお酒を売っているところはたくさんありましたので、缶酎ハイなどを大量に買い込んだのです。
そして同室の人が「女性にも声をかけてきます」と言い、女性は3~4人の宿泊者のうち一人だけが参加しました。
(飲む場所は男性の部屋です。)
見ず知らず、お互いの出身地はもちろん名前さえ知らないのに異様な盛り上がりで、だんだん声もでかくなってきます。
そしてついにYHのおばさんが入って来て怒られてしまいました。
でもその後また再開して楽しい一夜を過ごしたのでした。
本件についての詳細は以下の記事をどうぞ。
なお島原YHはとうに閉館してしまいましたが、2019年現在もゲストハウスとして使われているようで、建物もYHの時のまま、それどころか入口上部に「JYH」(日本ユースホステル協会の略称)の文字まで今でも掲げられていて驚きです。
以下の写真はGoogle mapのストリートビューからの切出しです。(2018年4月撮影)
クリックで拡大します。
▼YH山国屋旅館 (5月5日泊)
明治初期に建設された築140年にもなる古民家の旅館で、一部の部屋をYHとして使っていました。
場所は大分県の青の洞門で有名な耶馬渓です。
このような由緒ある古民家でのアバンチュールはいかに・・・、ですが結局は宴会でした。
島原と同じく少人数の宿泊者しかおらず、旅館の方もお客さんがいるのかどうかわからない状況。
そして付近は住宅がポツンポツンとあるだけなのに、なぜかYHの斜め前には酒屋が一件だけある、というロケーションでした。
皆酔いに任せてかなり大騒ぎしたのですがYHの人は誰も注意に来ませんでした。
私の初めての九州旅行の最後の夜を飾るにふさわしいほどの大宴会で、それはとても楽しい一夜でした。
この日のことの詳細は以下の記事をご覧下さい。
その他のYHはどうだったかな?
覚えている範囲で書いてみましょう。年月が経っているのでかなり曖昧な部分はご容赦下さい。
■長崎南方苑YH(4月28日泊)
長崎市街地を見下ろす山の中腹にあったYH。平成7年(1995年)に閉館してしまったようです。
当日はやはり長崎ということもあってかなり人が多く、満室に近かったのではないでしょうか?
「とにかく人が多かった」、「美しい夜景を見れた」、「交通が不便で長崎駅からはバスを利用。歩けないこともなかったけど」が強く記憶に残っています。
閉館後既に24年も経っていますが(2019年基準)なんと同YHのサイトを見つけました!
ファンだった方には懐かしいと思います。かなり昔の写真もありますのでぜひご覧ください。
(リンク切れは御容赦ください。)
■阿蘇YH(4月30日泊)
なんと2019年10月現在まだ建物が残っているようですが、既に閉館となり地図を見ると「あそら食堂&カフェ」と表示されます。建物自体はYHの物を使っているようです。
さらに驚きなのが食堂&カフェに代わっても入り口の部分はYH時代のままで「阿蘇ユースホステル」という文字もそのまま残っています!
阿蘇市のサイトによると「旧YHの土地と建物を売却します」と2017年3月の「広報あそ」に出ています。
それによると昭和39年(1964年)建築(2019年基準で築55年)、土地は2,721.00㎡、建物面積607.17㎡、熊本地震により建物の外、内ともに損傷あり、と記載されています。
参考となるサイト様はこちら(リンク切れは御容赦を)
上記のサイトには写真に何枚か出ていて、35年前に私が泊まった時と全く変わっておらず、うれしいどころかかなりの驚きです。
以下はGoogle mapストリートビューからの切出しです。
撮影日は2013年11月と記載されていて、車も数台停まっていますのでこの時点で営業はしているようです。
しかし看板のところに「Dormitory 1-night ¥2000」とありますので既に以前のYH協会に所属する形態ではないようですね。
↓クリックで拡大します。
宿泊日は定員の半分強くらいの宿泊者だったと思います。
ペアレントさんが夜、「阿蘇は巨大なカルデラはもちろんだが、草千里を見てこそ阿蘇を味わえる」と言っていたのが印象的で、翌日阿蘇の山頂まで行ったのですが、草千里はまさにその通り本当に素晴らしい風景でした。
なだらかな斜面に一面の草原が広がり、多くの牛が放牧されています。
まさに牧歌的な美しい風景なのですが、牛の胴体に管理番号が大きく描かれていたのはちょっとがっかり、というか衝撃でした。
もしかしたら焼き印かもしれません。だとするともっと衝撃ですが。
山頂はまさに世界最大のカルデラ、これほどの風景が日本にもあるのかと驚愕するほどです。
そして活火山なので万が一に備えてコンクリート製の避難壕が数か所ありました。
この日は鹿児島の霧島高原YHまで行かなくてはいけなかったのでゆっくりする事が出来ずそれが心残りでした。
また日を改めてじっくり阿蘇を訪れたいと思っているのですが、35年も過ぎてしまった今日、まだ阿蘇を再訪出来ていません。でも絶対に行きたい場所です。
■霧島高原YH (5月1日泊)
現在営業中の霧島神宮前YHとは全く別物で。当時の霧島高原YHは三角屋根でJYHと大きい文字の入った「典型的なYHの建物」でした。
前述の島原YHの建物とほぼ同じです。
YH前にはSLが展示されていましたが、YH閉館後朽ち果てるような状況になっていたようですが、地元の業者が買取り2010年に別の場所に保存されたそうです。
宿泊日はかなり人が多くて、記憶にあるのは「特段のミーティングはなくて食後は各自旅の情報交換をしたりして過ごした」、「風呂で50歳くらいのおっさんが何故か私に会社の愚痴を延々と話してうざかった」くらいしか覚えていません。
でも当日の私には可もなく不可もなく、という一夜でした・・・。
▼YH宮崎県青年会館 (5月2日泊)
海が直ぐそばですが周りは住宅がたくさん立ち並んでいて、建物は「昔からある公営の研修施設」という感じでした。
収容人数はかなり多く感じましたが、当日はスカスカで開店休業状態でした。
私いれて10人もいなかったのでは?と思います。
印象が非常に薄くて、海を見てからはYHに早目に入り、やることもないので広い集会室でおびただしい量の漫画の単行本を呼んで過ごしました。
その時集会室のTVでは再放送の「北の国から」をやっていましたが誰がTVを付けたのか見ている人はほぼ皆無でした。
食事の事も何も覚えていないので研修施設的YHの食事?だったのでしょう。美味くもなく不味くもなくとか。
だいぶ前に閉館していますが、2018年4月撮影のストリートビューを見ると建物は廃墟と言う感じで残っているようです。
↓以下がストーリートビューからの切出しです。
(クリックで拡大します。)
▼別府YH(5月3日、4日 連泊)
ここは別府駅からはバス利用となり、やや山の上の方で交通は不便な場所です。
でも2泊とも物凄い数のホステラーが止まっていて、「ごった返している」という言葉がぴったりでした。
また海外からのホステラーが思いのほか多く、「世界のベップ」として有名なのかもしれません。
建物は当時でもかなり古く感じお世辞にも綺麗なYHではありませんが、いかにも典型的な民営YHという感じで私は好感が持てました。
ミーティングは事前情報でバカ騒ぎをするとかも聞いていたのですが、記憶の範囲ではペアレントが周辺の事や明朝のことを説明しただけだったと思うのですが、少なくても大声で歌ったり踊ったりは2泊ともありませんでした。
食事内容も記憶にありません。
ただ食事中もとにかく人が多いのでザワザワしていた、くらいの記憶ですね。
このYHもいつの間にか閉館してしまいましたし、ネット上にもあまり情報がありません。
とても楽しかった、活気あるYHらしいYHだったので閉館したことは私の忘却の彼方に行って2度と戻って来ないと思うと寂しくて切なくなります。
でもこれでいいのでしょうね。
最後の日も本当に最後まで楽しんだ
帰る日(5月6日(日))の朝は、前夜のお酒が抜けておらず、少々頭が痛い、ぼーっとすると言う状況で朝食を食べませんでした。
(YH山国屋旅館。朝食は事前に予約していなかった。理由は覚えておらず。)
前夜盛り上がった数人とYHから徒歩で30分ほど羅漢寺まで歩いて行きました。
羅漢寺は大きな岩というような山の途中にあり、そこに登るのですが特別高い場所にあるわけではないので誰でも訪れることが出来ます。
500体以上の石仏があり、絵馬(と呼んでい良いのか?)はしゃもじのようなものに願いを書くのです。
私は絵馬は求めませんでしたが、様々な人の絵馬を見ていたら、「歌が売れますように」(みたいな)事が書いてある絵馬を見つけました。
どう考えても「これって歌手が書いたんだよね?」と思いますよね?
はっきり覚えているのですが、「杉田愛子」と書かれていました。
そういえばそんな名前の歌手がいたな、とふと思ったのですが、印象薄かったのでデビューしたての人かな?くらいしか思いませんでした。
でも帰宅後テレビで杉田愛子さんを見て、「あ!この人か!」と思ったのを覚えています。
既に引退されたようですが、今でもファンが多いのかネットでは色々と出て来るみたいですね。
(福岡で芸能事務所の社長をやっているようです。)
そして羅漢寺から青の洞門まで1時間近くをフラフラと歩いて行き、青の洞門からはバスで中津駅に行きました。
YHで知り合った人で兵庫県に帰るという人がいて、では新大阪までご一緒に、ということになりました。
中津からは「特急にちりん」の自由席で小倉に向かい、小倉で昼食を食べようということになったのです。
小倉は私もその人も全く初めての場所で土地勘はゼロですが、大変大きな町なので「繁華街方向に行って適当な店に入りましょう」と言うことになりました。
当時の小倉はモノレールが建設中でしたが、国鉄(現、JR)駅の400m手前に終点駅を作り、ここをモノレールの小倉駅(暫定駅)とする計画だったようです。
モノレールのこの暫定の小倉駅は翌年の1985年1月9日開業なので、私が見た時はまさに建設の真っ最中だったわけです。
見た日も、「へぇ~ ここにモノレールを作るんだ。でも国鉄小倉駅直結じゃないの?」と空を見上げたことを覚えています。
(この暫定の小倉駅は1998年4月1日にJR小倉駅への乗り入れを実現し、駅名も平和通駅に改称されていますね。)
↓2019年7月撮影のJR/モノレール小倉駅
(クリックで拡大します。)
引用元:Google map ストリートビュー
そして繁華街方向に歩き、魚町という繁華街を歩きました。
私が歩いた範囲では飲み屋が圧倒的に多くて、日曜日の昼は空いてるお店が少なかったのです。
手ごろな定食屋も見つからずどうしよう、と思いあぐねていたのですが、旅の最後と言うこともあり、一緒にいた方も同意してくれたので寿司屋に入ることにしました。
回転寿司ではなくて、普通の寿司屋です。(店名、場所は覚えていません。)
色々と調子に乗って食べなければそんな高い値段にもならないだろう、と考えたのです。
お昼時でしたが、日曜日の飲み屋街だからでしょうか、店内はガラガラでした。
恐る恐るだったのでカウンター席ではなくテーブル席に座ろうとすると、マスターが「空いていますからぜひカウンターへ」というので断れずカウンターに座ります。
寿司屋のヒミツ
お酒は頼まず、安いネタを中心に食べたのですが、マスターは面白い話をしてくれました。
●店内の食事でも、カウンター席のお客さんにはシャリを軽く空気を入れてフワッと握る。
テーブルや小上がり席にはお皿に盛り付けて運ぶので、崩れないようにシャリはやや硬く握る。
だからカウンター席で食べた方が絶対に美味しい寿司が食べられる。
●カウンター席では「必ずお好みで注文」、「高めのネタを注文する」などが必要と思っているお客さんが多いが、決してそんなことはない。カウンターが開いていたら「並1人前」だけでも遠慮くなく頼んでほしい。
●出前の寿司はシャリを大きめに握る。家で食べる場合は「普通の食事」であり、来客のために出前を取ることも多いので、お腹に溜るように考慮する。
お店で食べる場合も食事ではあるが、「お酒を飲む人も多い」、「特別な席として談笑がメインになることもある」などからシャリは出前よりはやや小さくする。
いずれもネタの大きさは全て同じにしている。
だそうです。意外なヒミツを聞けて楽しかったです。
当時はまだ回転寿司が今ほど町に溢れていませんでしたし、普通のお寿司屋さんも全て上記のように握っているわけではないと思いますが聞いていて「なるほど」と思いました。
ここのお寿司屋さんで面白かったのがガリが出てこないんです。
ガリの代わりにきゅうりの塩漬けが出て来ます。
それも細長いスティックではなくて、長さ2~3㎝に切ったものがガリの代わりに出されます。
自分のところからキュウリが無くなると黙っていてもどんどん追加されてびっくりでした。
(最近福岡県の友人に聞いたところ、「特に福岡、九州だからガリの代わりにキュウリを、と言うことはないと思う。」と言っていたので、ここのお店だけなのかもしれませんね。)
恐れていた(?)お会計は二人で8200円ぴったりでした。美味い寿司をたらふく食べてこれは大変お値打ちだと思いましたね。
さて私が帰宅12日後の1984年5月18日に高度3200mから撮影された航空写真を発見しましたので、以下に添付します。
クリックで拡大します。
引用元: 国土交通省 国土地理院 「地図・空中写真閲覧サービス」に加筆
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
その後私たちは小倉から新幹線・こだまに乗り、新大阪乗り換えで帰宅しました。
(新大阪からも私は「こだま」でのんびり帰りました。)
9日間というとやや長めの旅行ですが、本当に充実した素晴らしい思い出に残る旅でした。
残念なのは私が泊まったYHは全て無くなってしまったということです。
同じ都市の別の場所で名称を変えて営業している(経営者は全く別の人)ところもあるようですが、基本的に全滅です。
でもYHではないにせよ島原YHの建物がそのまま残ってゲストハウスとして使われている事には驚きを隠せません。
またYH宮崎県青年会館もまだ建物が残っているのもびっくりです。
(取り壊しは時間の問題でしょうが)
私はこの旅行後九州には4~5回行っていますが、次回は時間とお金が許せば、初めて訪れた場所を(全部は無理でも)また訪れて「あの日」に浸ってみたいと思います。
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周遊券がなければ、このような旅は実現しなかったかもしれません。
宮崎は「青島」「婦人会館」「大堂津」ってのは聞いたことがあります。
いずれも、Yマーク(かⓎマーク?、△にYまーく?)の公共施設のYHですが、
青年会館があったのは知りませんでした。
・・・この旅、YHがなくても実現しませんが…みならいかのん
九州は親戚が香椎・八女(福島)等に住んでるので、あましYHは使っていません。
(会員なる前は九州の駅で駅寝野宿でした。)
それでも、2~30年前には五島・天草地域にハマり、公営長崎、天草、三井楽などよく泊まりました。
それも(三井楽は名前変わってますが残ってます)
もうなくなりました。天草はすんげぇボロ買ったけど、Pさんがおもしろくって、
ダジャレ連発、お酒は泊客が持ってくるし、予想外のつまみは出てくるし、
トライアスロンのにぃちゃんおもろいし、建物で判断はできないです。
・・・だからハンドブックの☆はひとつですはじめっち
「長崎南山」は自分らが長崎行くようになってからはなくなっていたのっす。
「ゑびすや」ってのがあっていけるかなと思った時にはYHやめてたみたいっす。
近くには「銅座長」ってのがあって、札幌の「BARやまざき」ってところで、
その町の「とみお」のカクテルがうまいといわれたので「えびすや」に泊まっていきたかったのっすが…。
宴会やらせてくれる雰囲気のあるところってなかなかないっす。
「いいかげんにせんかーい!」と叱られるまでがセット!…だべっか?
・・・あのころは立て続けに閉館多かったっすゆたか
あたいはむずかしいことはなんもわかんなかったけど、
三井楽を拠点に、レンタカーでたくさん教会さ回ったのだ。
そいえば親戚んちの近くの瀬高のYHにも泊ったことあったのだ。
中2階っぽい屋根裏っぽい部屋だったのだ。親戚の家っぽて違和感なかったのだ。
・・・んだから忘れてたのだつるみん
4あほ様
こんにちは。コメントありがとうございます。
皆さまも九州にも思い出があるのですね。
ワイド周遊券(九州以外も)が無くなったのは「利用者の減少」とか言いますが、単に収益アップ対策だと思います。
物理的な形がある商品や施設と異なり、周遊券は機械が発券する一枚の紙切れに過ぎず、あとは運用だけだからです。
だから利用者が少数でもやめないと経費が掛かるとかの理由にならないですね。
さてYHが加速的に閉館する時期があったのは九州や北海道に限らず全国的、しかもほぼ似たような時期だったと思います。
物凄い勢いで無くなっていきました。
その後新しく出来たYHも途中で閉館、あるいはYH協会の下でYHという形態での存続が難しくなり、ゲストハウスなどに変わったところが多いです。
将来的に日本からYHが完全に無くなることはないと思いますが、さらに減少、そして経営形態の大幅変化は避けられないでしょう。
私たちは良い時代を知ることが出来てよかったと思います。
ご無沙汰しています。
私はこの2年後に周遊券を持ち、九州を回っています。
少なくとも九州の多くの場所で、この頃の2年の差は今ほど目まぐるしい変化は無いので多分同じ感覚で旅行したと思います。
キハ58の冷房車や485系に乗れるとラッキーと思いましたし、小さな駅にも駅員がいて途中下車印を押してくれて、キオスクには地元ならではの決して垢抜けはしていないものの名品があったりしました。
ただ、ユースホステルの会員にはならず、急行日南やかいもんの座席の他は親類宅に泊まりました。
その後上京、職に就いてから出張で九州には何度も行きました。
JRとなり、ゆふいんの森号等サービスも設備も洗練された列車が走り、駅はきれいになり、沢山の商品が販売されて兵糧攻めは無くなりましたが(誤解の無いように言うとこれはこれでありがたい事で、否定どころか感謝しています)、何か落ちつかなかさを感じています。
幼少だった事を差し引いても何かが違うと感じています。
本当に思い出の彼方に去って行った景色と辛うじて瞼に浮かぶ当時の光景。
夢の中でいいからもう一度国鉄特急、国鉄九州、国鉄ローカル線の旅をしたいです。
ユースホステルについてはまた別の機会にコメントさせて頂きたく存じます。
広島育ちです 様
こんにちは。コメントありがとうございます。
私の2年後ですか、そうですね全く変わっていない風景があったと思います。
私も強烈な印象に残った旅だったので大変に懐かしく、その後も数回九州には行きましたが、どうしても最初の旅と同じ場所をもう一度回ってみたくて仕方ないのです。
もちろん駅やその他風景も変わってしまっていますが、それでもです。
当時は全国的にもまだ急行が多く走っていましたね。
九州は横断する列車も多く、北海道さながらのローカル急行も多かったです。
この時の九州旅行を思い出していつも思うのは、
「あの時出会ったみんな、今はどうしているのかな?
俺と同じく年とっただろうし・・・」
と。会いたいなとも思います。どこの誰だかわからないのに・・・。
だから本サイトのコメント/メッセージ欄に淡い期待をかけていたりします。
さてまた当サイトを訪れてください。
そして思い出に浸っていただければ管理人としてこんなにうれしいことはございません。
ありがとうございました。
再コメント失礼致します。
>>あの時出会ったみんな、今はどうしているのかな?
俺と同じく年とっただろうし・・・
私もそれを思います。
名前も覚えていないし顔も覚えていませんが、その時の思い出だけはしっかりと残っていたりします。
思うに当時SNSがあればまた違ったのかな?とも思います。と言うのは旅先でSNS友達になってしまうと相手から解除されない限りは相手の動きはある程度わかります。
さて、この九州旅行は私自身思い出に残っていて特に大村線とか日南線、日豊本線とかは出張を利用した際に再訪しました。
その時の事は甘い思い出として蘇ります。
広島育ちです様
コメントありがとうございます。
たった一夜の見知らぬ友、帰宅後写真を送って「はいおしまい!」という人など出会いは様々ですがYHでの出会いはすごく大切な宝物で、過ぎ去った人であっても良き思い出だと思います。
九州旅行の時に知り合った人とは帰宅後全くつながりがありませんが、別の地域のYHで知り合った人とは30年超の時を超えて今でも友人付き合いをしている人が数人います。
皆家族を持ち、おっさんになり、病気がちとかの便りももらったりもします。
今思うことは彼らと知り合えてよかった、今でも友人でいてくれて良かったと切に思いますが、「SNSやネットが無い時代に知り合えてよかった」とも思うんです。
理由は自分でもよく分かりません。
ネットがあればメールとかでいつでもリアルタイムで連絡が取れる利便性がありますが、YHで知り合うというのは、
「YHという摩訶不思議な宿で偶然知り合った」
という感覚が何かゾクゾクするものを私は感じるからなのです。