紋別流氷の宿ユースホステルで使われた歌集
【2021年2月24日追記】
歌集のお送り方法について変更を記しましたので本記事下段の【入手方法】をご覧下さい。
紋別流氷の宿ユースホステルの歌集
ユースホステル(以下、YH)では夕食後にミーティングという集いがありました。
ありました、と過去形に書いていますが現在は多くのYHではやらなくなっているようですが、1980年代前半くらいまでは全国どこのYHでも何かしらのミーティングをやっていました。
「お茶を飲んで静かに語る」、「旅行の情報交換をする」、「全員で歌を歌ったりゲームをして楽しむ」、「歌などに加えバカ踊りを交えた大騒ぎ!時として野外でも行う」など様々でした。
今回はこの中の「歌」、そしてミーティングで使われた歌集に特化した記事です。
なおYHをご存知でない方はまず以下をご覧下さい。
数多いYHの中から北海道にあった紋別流氷の宿ユースホステルで使われた歌集についてご紹介します。
このYHは既に閉館してしまっています。当該YHの関連記事は以下をご覧下さい。
今回、当サイトご訪問者様の「ひっちゃん 様」より実際に使われていた歌集をご紹介します。
「ひっちゃん様」は1980年(昭和55年)の冬に同YHでヘルパーをおやりになっていた方で、その当時の歌集のコピーを送って下さいました。
改めて「ひっちゃん様」にはお礼申し上げます。ありがとうございました。
歌集の作成日は1979年(昭和54年)2月22日(木)と記されていますが、中身は当時流行った歌謡曲ではなくて定番のYHで歌い継がれていた曲ばかりです。
そのせいか一番最初に掲載されている曲は当時YHをあちこち泊まりまくっていた方には定番中の定番の「旅の終わり」となっています。にくいですね!(って知っている人だけ分かる話しですが)
まずはこの歌集の抜粋ページ、表紙含めて4ページほどをご覧下さい。
以下はクリックで拡大します。
(無断転用禁止です。当サイト内全記事の写真、図、データ等もですが。)
どうですか?
当時のYHを知る人は「おお!」と感激して下さったでしょうか?
何処のYHに行ってもこんな↑手作り感満載の歌集が使われていましたね。
ミーティングの時に程よい大きさの箱にドバっと入った歌集を「全員に配って下さい」とかヘルパーが言うところから始まって・・・でしたね。
今回のものに限らず色の付いたもの、つまりカラーページのものは私は見たことがありません。
どこかのYHではあったのかもしれませんが、当時はヘルパーが使ってよいワープロ、PCなんて置いてあるYHは無かったのですべて手作り、しかも早朝から忙しいヘルパーたちがほんの一息付ける午後の僅かな時間で作っていたはずです。
それだけ心がこもっていますね。
紋別流氷の宿YHの歌集全ページをご提供します
今回歌集のご提供者でおられる「ひっちゃん様」とご相談させて頂き、紋別に特段の思い出がある方もいらっしゃるはずなので一定のルールのもと本歌集を希望者には無償配布することに致しました。
ルールと方法は以下です。
●内容は全て無断転用不可とします。
●もし歌集の一部、もしくは全部を何かで使いたい時は事前に必ずご連絡下さい。
連絡方法は当サイトタイトル直下の「お問合せ」からメール連絡をお願いします。
ご自分のブログなどに載せる時も含みます。
お問合わせは以下の場所にあります。スマホ版もほぼ同様の場所からアクセス出来ます。
(タイトルデザインは今後変更する可能性もありますが、タイトル直下にお問合せは設置します。)
【入手方法】
1、上記の「お問合せ」から入手希望とお書きの上メールアドレスを記載してご連絡下さい。
その際紋別流氷の宿YHにどういう思い出があるか記載して下さると嬉しいです。
なお紋別に泊まったことのない方、YH自体一度も泊まったことのない方でも構いません。
2、当方に特段の用事がなければ24~48時間でお返事を差し上げますので、受領についてご案内いたします。
(当方も本サイト運営を選任でやっているわけではありませんので、上記時間でいったん事前連絡とし、その数日後にお送りするという事もあります。)
3、歌集はファイル転送でお送りします。→ メール添付でお送りします。(2021/2/24追記)
何らかの理由でメール添付の送信が出来ない場合に限りファイル転送を使います。
その際の方法は以下をご覧下さい。(2021/2/24追記)
(ファイル転送の時)
当方の準備が出来ましたらファイル受領のためのURLをお送りしますので、それをクリックすればダウンロード出来ます。
・ファイルは約2.64MBのPDFファイルです。26ページあります。
・ファイルサイズが小さいのでそちらに問題がなければメール添付でお送りする事も可能です。
(基本はメール添付とします。(2021/2/24追記))
・歌集は作成から長い年月が経っており、その原版をコピーしてさらにデータ化していますので、汚れや見づらい部分が多々あります。また各ページの大きさが揃っていませんがご了承願います。
・PCでしか検証しておりませんがPDFを展開閲覧出来ればスマートフォンでも可能と思います。
以上ですがよろしければ全ページをご覧になり「あの日」、「あの時代」に浸って頂ければ嬉しい限りです。
YH自体が衰退し、若者でも高級リゾートをリーズナブルな価格で利用出来る時代になりましたので、YHのような相部屋の簡易宿泊施設と言える場所は敬遠されて当然の時代かもしれません。
ましてや夜宿泊者が全員集まって見知らぬどおしで昔ながらのフォークソングを歌うなんて滑稽な光景と目に映る事でしょう。
でもそれは時代の変化なんだから当然であり、今の人がそう思うのはむしろ良い事なんです。
時代と共に考え方、文化が変わっていくのは当たり前です。
大事なのはその変化を認めるかどうか(好きか嫌いかではなく)なのです。
時代が変わるように気持ちも「今はこうなんだ。俺にはちょっとだけど。時代だよね」と思えれば人間進化・進歩出来ると思います。年齢に関係なく人間は進化しなくてはいけないと思うのです。
でも「あの日」は絶対に忘れたくないですね。
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むかしのYHハンドブックなんかもそうですが、それ以上にこう言った歌集ってのは、
使用頻度が高い消耗品なんで、ぼろぼろになったら廃棄処分、もらっても旅の途中で破損・紛失したりと、
玩具と同じで、まず残らないのが一般的ですが…。
しかもギターコードなんてのもついてたりなんかして、当時はギター弾ける人多かったんだな!っと。
・・・こういった資料一つでいろいろ妄想できるもんですはじめっち
しっかしまぁ、「南孝節」あり「ささきいさお」あり、「芹洋子?」ありと、
異文化にとらわれないラインナップがあること自体、
製作者(というか編者・蒐集者)の頭を興味本位でちょび脳解剖してみたいかなっす。
うちら若いから半分以上の曲名はわからないっすが、YH=フォークってばないことがわかるっす。
歌や踊りが同じように画一化されてるように見えるYHも、実は個性があった証拠っすね。
・・・いやうちらが曲知らないだけで全部フォークだったりするかもっすか…ゆたか
あたいはむずかしいことはよくわかんないけんども、
「宗谷岬」ってば「ダ・カーポ」の曲だとばかり思ってたんだけど、
その前に歌ってた人がいて、売れなかった…というのを数日前の『ラジオ深夜便」で聞いたのだ。
・・・かるちゃあしょっくなのだつるみん
たぶん、「ガリ版印刷」ってのだと思うけどぉ、印刷方法に想像がつかないですぅ…。
「鉄筆・つぶしのヘラ?・修正液」や「ボールペンを使ったものや専用の修正液」
やったことがあるっていう2匹のじじぃから聞いたけど、なんじゃらほいですぅ…。
あたいが知ってるのは、年賀状の原稿書いて、印刷原紙に合わせて、光が出るやつで、
「バシャ!」と焼いて、はんこみたく印刷する多色刷りの印刷機だよ、知ってるかなぁ?。
「ぱうちっこ」とか「ぷりんとごっこ」とかいってたですぅ~…。
・・・ところで「わらばんし」って何ですかぁ?みならいかのん
4あほ様
こんにちは。コメントありがとうございます。
「知らない曲ばかり」、「ガリ版って?」、「わらばんし?」などなどさすが皆さんお若い「ナウイヤング」なので昔の事はご存知ないのですね!!
いいなあ!若いって!青春を思い出します。
私はジジイで若い頃があまりにも懐かしいのでこのサイトをボケ防止のために立ち上げたのです。
お若い皆さんが羨ましい…
もう一回り上のジジイが参戦します。
この歌集もたぶん何代目かの冊子だと思いますが、そのユースのペアレントさんの人柄がにじみ出ているような気がします。
たしか紋別のSさんは学生時代、ユース以外、山にも登っていたと聞いています。収められている歌を見ると、古いほうから「山(キャンプ)の歌」、「フォークソング」、「北海道の歌」、「ユースホステルに伝わる歌」などがあるようです。
当時はCD以前のレコード・カセットの時代ですが、「岩尾別旅情」はさとう宗幸さんのアマチュア時代の作品で、北海道のユースではデビュー前から知られていました。「時計台の鐘の鳴る街」もオリジナルのレコードは存在していたようですが、ユースでは作者不詳の歌とされており、いずれも「旅の終り」が、作者の手を離れて、ユースからユースへと人づてに歌い継がれていった状況と、伝わり方がよく似ています。
「歌集」はユースの歴史の証言者でもありますので、もし各ユースの「古い歌集」をお持ちの方がいらっしゃったら、ぜひ公開していただければと思います。
いら かおる様
コメントありがとうございます。
全国のYHには無数の歌集がありましたよね。すべて手作り感満載の暖かい物でした。
今各地のYHで歌集が置いてある、なんてところはいくつあるのでしょうか?
多分両手両足で数えるほどもないかもしれません。
紋別以外の昔の歌集も見てみたいと私も思います。
「歌集」からは少しそれますが、4あほさんの「宗谷岬」について補足します。この曲はもともとご当地ソングの歌謡曲で、稚内在住の吉田弘さんが作詞し、大御所の船村徹さんが作曲。黒木真理(まこと)さんという女性歌手がレコーディングしました。しかしほとんど売れず、数年経ってたまたま取材に訪れたNHK旭川のスタッフがこの歌の存在を知り、その後の展開で「みんなのうた」(ダ・カーポ)によって全国に広まったそうです。
この作詞の吉田弘さんですが、利尻・礼文を歌ったあの「島を愛する」(山高くして夢があり・・・)の作者でもあり、歌を通してユースと縁のある方と言えるかもしれません。
いら かおる様
コメントありがとうございます。
宗谷岬は私も大好きな歌です。でもご当地ソングとは知りませんでした。
色々と当時の歌に大変にお詳しくていつも驚きます。
またお教えください。
ありゃま~、ラジオ深夜便じゃ、女性歌手の名前は言ってなかった(聞き逃したかもっすか)んで、
いま、「ゆ~ちゅーぶ」で黒木真理さんの「宗谷岬」聞いてるっす。
なっかなか「こぶし」ばぁ効いてるっすね。情報、まっことありあとございやしたぁっす。
・・・またひとつかしこくなったっすゆたか
たしかに、ほかのYH(に限らず、さまざまな団体の)の歌集なんかも見てみたいものです。
お寺だったら般若心経?、カトリックだったら讃美歌、神社だったら太鼓や雅楽でセッション?
なんて歌集が「秘密裏」にあるかもしれません、宗教のYHとか、けっこうノリいいんで…。
・・・あっ!YHでの宗教活動ってばダメだったんだあはは…はじめっち
文字を持たないって言われたアイヌの人たちの文化・歴史の伝承方法も、
文字には残せない、一部のかくれ(潜伏)キリシタンのオラショ?の伝達方法も、
「口述」で伝えられたらしいですがぁ、YHの歌も初めは口述で伝えられていった…ってのも、
なんかおもしろい話ですぅ…。伝えられるなかで、少しずつ内容(や曲調・節回し)とかが、
変容していったかもしれない…って、歌集で確認出来たら、えへへへへぇ~…ですぅ。
・・・民俗学に通じちゃったりしますですぅ…みならいかのん
3あほ様
コメントありがとうございます。
YHでの宗教活動、って言ってもお寺のYHだと座禅や朝のお勤めがあったり、キリスト教関連だとそういうものがまたあるのでしょう。
アイヌ、民俗学、なるほど、よーく考えて見ればYHでもそういうことが学べましたね。
でもバカ騒ぎミーティングでかき消されちゃうけど。
口から口へと伝わった一番の例が「旅の終り」です。
作者は舟橋俊久さんですが、最初にレコーディングしたのは名古屋の音楽仲間の山名敏晴さんです。それが昭和48年のこと。でも桃岩荘では昭和47年にもう歌われていました。では誰が伝えたのか。
山名さんはユースとは無縁でしたが、昭和46年に北海道を訪れた際、地元の若者に「旅の終り」を教えたということで、それがユースに持ち込まれたのではないかと思われます。(本人に取材済です)
いわばオリジナルが「山名敏晴」さんで、変化したユース版が「青木 清」さんバージョンと考えて聞き比べると、その差がよくわかります。ほかにも競作レコードがいくつかありますが、歌詞を変えたりしていますので、ホステラーとしてはやや違和感があります。
いら かおる様
コメントありがとうございます。
旅の終わりにはそういうことがあったのですね。
山名さんという方のお名前は初めて聞きました。
YHで流行った歌には様々なルーツがあり、どういうことで定着したのか分からない曲ばかりですね。
またお越しくださいね。
はじめてお便りします。
1972年、新婚旅行から帰られたかとんぼさんと、奥さんに、旭川ユースでお会いしました。
ユースを始められるとお聞きして、いつか訪れますと約束したのに
行けずじまいで、70歳をこえてしまいました。
お二人に会いたかったです。
ヤスべえ様
こんにちは。コメントありがとうございます。
その年に旭川YHに行かれたという事は、私が旭川YHに初めて泊まる4年前となります。
まさに北海道旅行、YH全盛時代だったのでしょうね。
旭川YHの記事も弊サイトにはございます。
ぜひご覧ください。
そしてまたのご再訪お待ち申し上げております。
はじめまして。
来月40年振りに紋別を訪問する予定があり、検索してたどり着きました。懐かしさと、宿の存在を再確認出来て、本当にうれしく思っています。
当時高校生だった私が「もんべつ」という街の名の響きと、流氷がやってくる街という憧れから、初めての北海道でどうしても訪れたかった街でした。
その際、ほぼ初めて泊まったユースが「紋別流氷の宿」でした。少し年上の大学生がとても大人に感じ、一緒に交えてもらって、一面が流氷に覆われたオホーツクを、何キロも歩いて散策しまして冬の紋別を楽しんだ暖かな記憶があります。
その後、様々なユースを泊まり歩きましたが、「紋別流氷の宿」私にとっては今も忘れられないユースとなっています。
来月、宿の跡地へも是非訪れて参りたいと思います。
本当に、ありがとうございました。
カズ様
コメントありがとうございます。
もしかしたら私とカズ様はかなり近い年齢だと思います。私の方が上ですが。
あそこは本当に忘れられない宿です。心に染みます。
だからこそ多くの方がコメント下さるのだと思います。本当に忘れられない青春の一ページでした。
でももう二度とあそこには泊れない・・・
私も紋別の跡地などを訪れたいです。
しかし同じ道内でも札幌からの道中はあまりにも遠くまさに地の果てです。
紋別の旅行楽しんでくださいね。
また弊サイトにもお越しください。