旅先での忘れられない一場面
どんな旅でも忘れられない一場面はある
旅、旅行は趣味にしていなくても誰でも数度以上は経験しているはずですね。
幼少期の家族旅行、修学旅行などもあります。
旅先で大変大きな出来事もあったでしょうし、極めて些細な出来事だけど忘れられない一場面もあったでしょう。
この記事ではそのような忘れられない一場面を記憶の範囲で書いてみます。
但し当サイトのポリシーである「偏見はないけど独断だらけ」が基本となりますので偏った内容はご容赦下さいませ。
また以下の記事も併せてご覧頂ければ幸いです。以下の記事は同じ旅先であっても「困ってしまった。」、「どうしようかと思った」、「想像以上の事があった」などどちらかというとトラブル系(全てがではありませんが)が多いのですが、本記事は「感動した」、「奇遇にしてもここまでとは」、「ちょっと困ったけど感動した」など良かった系が主となります。
旅先でどんなことがあった?
これは旅行の内容やその時の年齢で感じ方が大きく異なって来ると思いますが、心から離れない出来事の多くは幼少期や若年期だと思います。
本記事は管理人の独断で、思い出した経験を列挙します。
共感して下さる方もいれば、「そんなこと有得るの?」とびっくりの方もいらっしゃることでしょう。
まあ暇つぶしと思って読んで頂ければ幸いです。なお以下の出来事は全て北海道内、及び関連内容となります。
1、1000㎞以上も離れた旅先で会社の人と会った(しかも何回も)
今思い出しても「こんな事ってあるんだ」と思う事の代表格です。
すべて私が横浜市在住時代に北海道旅行に来ていた時の経験ですが、北海道各地で当時の東京の勤務先の人と何回も出くわしたのでした!
・青函連絡船 函館桟橋
これが旅先で初めて会社の人にあった出来事でした。(北海道以外も含めて)
忘れもしない1986年(昭和61年)の8月でした。当時は1988年での青函連絡船の廃止(1988年3月の青函トンネル開通に合わせて)が決まっていたので青函航路全盛期に匹敵すると言われたほどの混雑ぶりでした。
8月ということもありますがとにかく人が多く、座席確保どころか目的の便に乗れないというのも日常的だったのです。
私は札幌から夕方着いた列車から飛び降り連絡船乗り場へ猛ダッシュです。でも結局夜の便は既に満員で確か0時5分か10分出航の便まで待つことになったのです。
時間はたっぷりありますがとにかく連絡船乗り場や函館駅構内は人が多すぎて嫌になるほどでした。
そんな中「○○君!(私の名前)」と声をかけて来る人がいました。なんと会社の同僚で同い年の人。彼も一人で北海道を旅行しに来ていて夜の便に乗れず私と同じ深夜便になったそうです。
東京から遠く離れた函館という地、そしてとんでもない程の人ごみの中でよく出会えたと感慨無量でした。
となれば話しは早く、さっそく二人で夜の街に繰り出します。居酒屋でワハハワハハとバカ話に明け暮れ、「そろそろ戻ろう。同じ船だね」と言いながら連絡船乗り場へ。
でも結局はぐれちゃったんです。人ごみの中でも一緒にいて同じ便であれば普通ははぐれるなんてあり得ませんが、これは単に二人ともぐてんぐてんに酔っぱらっていたからに他なりません。
それと青森からどの列車に乗るのかも聞いていませんでした。まあいいや、どうせ会社に戻ってから話せば、ということで酔っていた事もあり、連絡船で席を確保した私は出航のドラの音と蛍の光を聞くこともなく爆寝してしまい、気が付いたら外は薄っすらと明るくなり船内のスピーカーからは鳥のさえずりが流れていました。
・美瑛駅前
富良野と並ぶ一大観光地の美瑛の駅前で偶然声をかけられたことがありました。30年近く前の8月でした。
その時私は旭川でレンタカーを借りて美瑛・富良野と定番の地を自由気ままに走っていました。
美瑛の駅前に車を止めてトイレ休憩をし、駅前の写真などを撮っていた時に「○○さん!」(私の名前)を後ろから声をかけられたのです。
「いったい誰?」と振り向くと会社の後輩が奥様とたたずんでいます。「え~!」とビックリ仰天です。
まさかこんなところで会社の人に会うとは! 話を聞くと札幌のご両親の家に遊びに来ていて「美瑛・富良野でも行こうか」という事になりお二人で列車で訪れたそうです。彼は普段は無類のクルマ好きな人ですが今回はローカル線でのんびりと列車に乗りたかったと言っていました。
相手は時刻が決まっている列車ですし、長期間会えなかった人ではないので軽く話をして美瑛駅前で別れました。
・オンネトーの湖畔
オンネトーをご存知でしょうか?
雌阿寒温泉(野中温泉)のさらに奥にあるまさに神秘の湖です。
目の前に雌阿寒岳と阿寒富士がそびえ立つ静かな美しい原始の森、湖なのですがこの湖畔で会社の後輩に出会ったのです!
これも30年くらい前の話しなのですが、夏の観光シーズンはやはり多くの人が訪れます。
しかし阿寒湖などに比べたら湖畔には一切ホテルやお店は無いので俗化はしていません。でも私が初めて通いだした1970年代後半に比べると道路も舗装されてしまったし(1970年代は未舗装だった)、観光バスも入るようになり、そういう面から言えば俗化されてしまったのかもしれません。
湖畔の中央ほどに10台くらい車を止める事の出来る場所があります。
ここがある意味オンネトーで一番賑わっている場所なのですが、ここで「○○さん!」と声をかけられたのですが、その人は大型のバイクに乗っていてフルフェースヘルメットを被っていました。
私は「誰?」と思ったのですが私の名前を知っているわけだからこっちも知っている人になりますね。
その人がヘルメットを取ると会社の後輩でした。
彼は優秀だけどちょっと名物的な人でもあったので、なおさら北海道の山奥で会うなんて、と驚きもひとしおでした。
「何してるんですか?」と言われても「遊びに来たんだよ」としか返す言葉がありません。
彼はでかいバイクとトヨタのスポーツセダンとも言えるソ〇ラに乗っている事は聞いていたのですが、まさかバイクで来るとは、と。
でも北海道はライダーの憧れの地でもありますね。
彼のバイクはメーカは忘れましたが1000ccなんです。だから滅茶苦茶早いんだけど、捕まるのは嫌なので北海道ではあんまりスピード出さないと言っていました。逆に北海道の道でスピードを出すと楽しめないとも。
それは地の果てまでも続く直線道路、そして左右の雄大な風景を楽しむにはむしろスピードは抑え気味の方が良いらしいのです。
でも普段は首都圏でこんなデカい目立つバイクに乗っていると、「族」に煽られる事も多いそうですが、そういう連中が迫って来てもアクセル一ひねりで「彼らは一瞬でミラーの点になる」と自慢していました。
2、変な奴に声をかけられたら・・・
まだ道内あちこちにユースホステル(以下YH)があって、それなりの数の宿泊者がいた1980年代後半くらいの札幌駅での出来事でした。
札幌駅の駅舎が以前の古い物だった時です。「みどりの窓口」付近にあった巨大な北海道の案内板(当時を知る人は覚えていると思いますが)の前でウロウロしていたら後ろから私に声をかけて来た人がいました。
その人はリュックを背負い、ひげは無かったけど髪の毛がちょっとだらしない感じで、いかにもYHを使ったり野宿をしながら旅をしているという風貌でした。
こういう人は当時でも一般人(?)からちょっと敬遠されましたが、1960~1980年代まではわりと全国各地にいたのです。
でも1980年代に入ると激減したとは思いますが。
私はその人を見た記憶が全くないのですが、その人はちょっと無礼な言い方で「お前、どこかで見たことあるよ」というのです。私はちょっとムッとして無視しようとしたのですが、その人は「以前道内のどこかのYHで会っているよ」と言い出し、自分のYH会員証を出して「お前も見せてよ」と言い出したのです。
YHの会員証は(当時は)二つ折りの厚紙で表紙に顔写真と名前などが記入されていて、中にはYHに1泊するごとにそのYHが用意した(作った)宿泊記念スタンプを押すことになっていたのです。
もちろん10数泊もすれば二つ折りの会員証ですからあっという間にスタンプを押すスペースが無くなります。
そういう時はスタンプ用の紙を継ぎ足すのです。
そして札幌駅で二人とも立ったままお互いのYH会員証を見せ合うと確かにその数年前に道内のYHで同じ日に泊まっていたんです。
でも今となってはどこのYHか思い出せないんですが、「釧路まきばYH」か「中山記念小清水YH」のいずれかだった気がします。
数年経っていますし、たった1泊でしかお互い会っていないのによく私の事を覚えていたな、と感心しました。
普通だったら住所交換したり、また会いましょう、という話しになるのですが、何となく私から見て生理的に受け付けられないタイプだったので適当にあしらってその場で別れました。失礼かと思いますが人間って男女問わずどうしても受け入れる事が出来ない人もいますからね。
3、列車の運転室に入れてもらえた
今は無き深名線での出来事です。1980年の8月のことでした。
当時でも超弩級の赤字ローカル線であった深名線に始発の深川駅から乗ったのです。
全線乗りたかったということと前後のスケジュールの関係で夕方に深川から乗り、その日は幌加内(ほろかない)か朱鞠内(しゅまりない)に泊まる予定でした。
8月といえども北海道は東京よりもだいぶ東に位置しますので日が暮れるのも早いんです。
当時から鉄道ファンである私はトイレに立ったついでに運転席を覗き込みました。
この列車は1両の古いディーゼルカーで、乗客は私以外に1~2人くらいしかいなかったと思います。
運転席には運転手の他にもう一人いました。車掌さんではなくて工事か保線関係の人が添乗していたのです。
彼らからしてもこのようなローカル線で旅人らしき人が運転席を覗いているのが珍しかったのか、その保線関係と思われる人が走行中にも拘わらず私に「入らないか?」と声をかけてくれたんです。
周囲はかなり薄暗かったのだけははっきり覚えていて、保線の人も運転手さんも「どこから来たの?」とか話しかけてくれました。
私はもう天にも舞い上がる気持ちでした。当時はまだ国鉄の時代でありJRのように様々な規則が厳格に守られていなかった時代なのでこのような事が実現出来たのだと思います。今だったら絶対に有得ないです。
さすがに「ちょっと運転してみるか?」とは言われませんでしたが、今思うとあり得ない話しであると同時に、写真をなぜ撮っておかなかったんだろう、と悔やまれます。
でも当時のローカル線は全国各地で似たような事はあったようでした。
4、前の席の赤ん坊が笑いかけてくれた
上記「3、」の深名線での出来事があった1980年8月の北海道旅行の帰りの列車内の事です。
この時の旅行は行きは上野発秋田経由の「夜行急行 津軽」、帰りは常磐線経由の青森発上野行きの「夜行急行 十和田」でした。
帰りの十和田は進行方向左側の窓側席に座ったのですが、私のすぐ前の席には生後1年以内と思われる赤ん坊を抱いたお母さんが座っていました。東の空が明るくなったころ私の前の赤ん坊は起きて何やら私に興味を抱いたようでこちらをじーっとガン見したりを繰り返していました。
赤ん坊や3~5歳くらいまでの子どもって大人が見つめられて恥ずかしくなるほど強烈なガン見をしますよね。
そしてその子はボールのようなおもちゃを持っていたのですが、彼(だと思う)の手から離れたそのボールは窓際のジュースなどが置けるスペースを伝わって私の元に転がって来ました。
私はそのボールを取ってその子に手渡しで返してあげたのですが、その子は私に向かって笑いかけてくれたのです!
まだ会話が出来る年齢ではありませんし、やっとヨチヨチ歩きで歩けるかどうかくらいの月齢です。
だからこそなのかもしれませんが、彼は笑顔でお礼をくれたのです。
その時私はこの子と人間同士の絆みたいなものを感じました。
たったこれだけの一瞬の出来事なのに今でも彼の笑顔は忘れられないんです。我が子のそれくらいの当時の笑顔は思い出せなくても十和田の車内での出来事は忘れられません。
その子は恐らく今年で42~43歳にもなるはずです。立派な社会人として家族を持って、恐らく人様の親となりどこかの都市で生きているのでしょう。
実に心に刻まれる経験だったと思います。
まだまだ思い出せばキリがありません。
しかしざっと考えてすぐに頭に浮かんだのが上記なのです。私はいい年のオッサンですが、これからも一瞬だけど心に残るような経験が出来ればいいな、いや絶対してみせると自分に言い聞かせたいと思います。
それらの経験が一生心に残る、或いは人生を変えてしまう事もあるかもしれないからです。
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旅をしていると、なんだろー上手く言えないけど、いやー旅はいいですよねー^^
ちょっと主様の意図とは外れるかと思いますが、いまだに私の中で忘れられないのがあれは天北線だったと思います、音威子府駅かなーきっぷ売り場で地元と思われる女子高生かな?「中頓(なかとん)」という声が忘れられないんです。顔とか風貌とか一切覚えてないのに、あの「なかとん」の声が忘れられないっす。
左馬之助様
こんにちは。 天北線は私も絶対に忘れられない路線です。
あの荒涼とした原野は日本ではないですね。でも「なかとん」という言い方は初めて聞きました。
きっと地元の人たちにはなじみの言い方なんでしょうね。
六本木を「ギロッポン」とか「ポンギ」というのと同じかな? (笑)