今ではあり得ないローカル線での経験
昔の国鉄ローカル線での出来事
本記事での「昔」とは1987年以前くらいを想定しています。
1987年(昭和62年)は日本国有鉄道、つまり国鉄が分割民営化されて現在のJRが発足した年でした。
JRは”とりあえず”民間企業ですので収益確保、利用客対応などで国鉄時代とは全く異なる厳しさを要求される組織となったわけですが、国鉄時代は良い面もたくさんあったけれど国鉄時代を知らない世代からすると「信じられない話し」、「絶対あってはならない」など驚愕な事実がたくさんありました。
まあ今更国鉄時代の問題点や酷い事実を列挙しても仕方ないので詳細は省略しますが、ざっと書くと「駅員や車掌が乗客に暴言を吐く」、「若い駅員がホームで乗客と殴り合い寸前(実際に夜の新宿駅で目撃)」など特に都会では普通にあったのです。
もちろん国鉄時代も乗客に親身になって対応し、「ここまでしてくれるなんて・・」という立派な駅員や車掌もたくさんいました。
しかしローカル線でも「今ではあり得ない」、「組織として問題になるかもしれない」という対応さえあったのです。
昔の国鉄ローカル線ではどんな経験をしたの?
印象が強烈だったことを思い出しながら書いてみます。「こんな時代だった」と軽く気楽に捉えて読んで頂ければ幸いです。
●運転室に誘われた
北海道の道央の深川駅から道北の名寄駅まで走っていた深名線(しんめいせん)という超大赤字のローカル線がありました。
1995年に廃止された路線です。
忘れもしない1980年(昭和55年)の8月、私は夕方深川駅から乗車し、途中の朱鞠内(しゅまりない)駅まで行く予定でした。
古いたった1両のディーゼルカーなのに運転手のほか車掌も乗っていました。
今では考えられませんね。都市部の8~10両編成の通勤電車でさえワンマン運転とかある時代なのに、1両の編成で車掌も乗務している、しかも乗客は10人にも届かないほんの数人だけ、という列車でです。
深川を発車し、一駅ごとに乗客は降りて行きます。私含めて3人くらいまで減ったのですが、宵が迫る時刻に「鉄ちゃん」でもある私は運転席を覗きに行きました。所謂「かぶり付き」です。
そうしたら後ろから来た車掌が「こっち入らないか?」と声をかけて来たのです!
つまり運転室に入れということです。我が耳を疑いながら「え?いいんですか?」と即答し、運転席に入れてもらいました。
↓このように運転手の横に陣取らせてもらった!
写真は当時の物ではありません。また写真の車両は運転室を覗けるような構造になっています。
運転中なのであまり話しかけたら失礼と思ったのですが、やはり「鉄魂(てつたましい)」が騒ぎ出していくつか運転手に質問した記憶があります。でも快く答えてくださいました。
↓運転手は「ブレーキはこうかけるんだ!」と教えてくれた(ウソ、私の願望でした)
私は運転室には5分くらいしかいなかったと思いますが、運転手と車掌にお礼を言って席に戻りました。
●当直室に泊まらせてもらえた
これは私が経験したのではなくて、北海道の複数のユースホステルで同室になった方から聞いた話しなのですが、同じような経験をあちこちのユースホステルで聞いたので事実だと思います。
中には「ああ、あの駅ね。泊まらせてもらえるという」なんて切出した途端に返答が返って来る場面もありましたので有名だったのかも?
やはり1980年の夏でした。
これってのほほんとしていた当時であってもかなりの大問題だったと思いますが恐らくその駅長の個人的好意からのものだったのでしょう。
けっこう多くの人が経験していたみたいで、相当前の話しですが現存駅なので具体的に書くのもよろしくないかな、と思うので駅はヒントだけ書いておきます。それは函館本線の滝川~旭川間の某駅でした。
泊まるというのは当直室で一晩過ごすということで、聞くと「布団を敷いてくれた」という人と「自分の寝袋で畳の部屋で寝た」という人に分かれるようでした。(当時の夏は長期間北海道を旅する人は寝袋持参が多かった)
「なぜそんな昔の事をはっきり書かないのか?他の記事では書いているものもあるのに」と仰る方もいるのは理解しております。
でも当サイトの他の記事でも相当前の事だから、とやや「ヤバ目」の事を割とはっきり目に書いたらまるで狂ったような激しい口調でコメントを寄せて来た人が複数人いました。
当サイトのコメント欄は承認制なので問題コメント、他のご訪問者様が見ていて不快になるコメントは一切承認せずに廃棄しておりますので表示されることは一切ありません。
でも私は読んでいて「数十年前の出来事で軽い内容なのにこんなに激しく攻撃する人がいるんだ」と驚愕し、それ以来文面もより一層気を付けるようにはしております。ご理解下さい。
さて泊まらせてもらえた、というのは自分から「泊めてください」と言った人はいないようで、当時は大きなリュックを背負って旅をするのが定番でしたので、そういう人で夜に着いて宿が決まって無さそうな人に「もし良かったら」ということになったようでした。もちろん食事やお茶も出ませんし、お風呂も無しです。使えるのは駅構内のトイレと洗面所だけですが、ありがたかったことでしょう。
本件は今は勿論、45年も前(2025年基準)であっても「あり得ない」出来事だったのです。
●車掌の勘違いで得をした?
今でも発売されている「青春18きっぷ」ですが、このきっぷは1982年から発売されました。
ちなみにこの切符は普通列車と快速列車のみ乗車でき、急行や特急は別途それらの料金を追加で払う必要があります。
そして1984年の夏に九州を旅した時にこの切符を使ったのですが、九州の某南部のローカル線の急行列車に乗った時に急行券を買う時間がなくて、「車内で買おう」と思い非常に短い接続時間で列車に飛び乗ったのでした。
当時はローカル線と言えども夏などは立ち客もたくさんいるほど列車は盛況で、人をかき分けながら車内改札にやって来た車掌さんに事情を説明し「急行券を売ってください」と申し出たのですが、その車掌さんは「この切符は急行も乗れるんですよ。だから買う必要はありません。」と言われてしまいました。
どうやら青春18きっぷが発売されて2年目ということで、このきっぷの内容が全職員に周知徹底までは行っていなかったようでした。
でも降車駅では乗車券と急行券を回収/チェックされますので、改札で事情を話して精算窓口に行き急行券は払いました。
結局「得はしなかった」んです。
でも得をした話も実はあるので思い出したついでに以下に書いておきます。
●周遊券で得をした話し
今度は周遊券で得をした話しです。
全国各地用に発売されていた周遊券ですが、当初は利用出来る列車は「普通列車/快速/急行(自由席)」で特急や新幹線は利用出来ませんでした。
しかし営業規則とかが変わり1982年頃から(正確でないかもしれませんが)特急自由席も利用出来るようになったのです。(新幹線は除外)
これは本当に便利になりましたね。当時はまだ急行列車がたくさん走っていた時代とはいえ、現在のように特急だらけになる前兆みたいな時代でもあったので、線区によっては短距離でも特急を利用せざる負えないところもあったのです。
1982年のゴールデンウィークだったと記憶しますが、信州方面に旅行をしました。
その時はすでに特急が利用出来るようになっていたのを知っていたので迷わず長野行きの「特急あさま」に乗ったのです。
(注意:在来線時代の「あさま」です)
そして上田駅で降車し、改札を出ようとしたら駅員に呼び止められて、「この切符では特急は乗れないんです。特急券分を払ってください。」とやや上から目線で言われました。
私は「今は周遊券で特急自由席は乗れますよね?」と言ったら駅員氏は「周遊券では乗れないんだよ!ダメだよ!」と段々口調がきつくなり、今では考えられない利用客を見下した口調・態度になって来ました。
私も当然「ムカッ!」としながら「乗れますよ、調べてください!」とこちらも口調がきつくなって行きます。
その駅員は味方を増やして私に反論しようと思ったのか、周遊券を他の駅員に見せながら「これでは特急は乗れないよね!」と同意を求めていたのですが、もう一人の駅員は「乗れるよ」の一言を返して来ました。
私は周遊券をもぎ取るように「ほら、乗れるだろ!」みたいなことを言ったと思いますが睨みつけて駅を出ました。
その瞬間改札口の駅員は「え?まさか?」みたいな顔をしてうつむきながら一瞬落ち込んだように見えました。
このやりとりを「得した」とは言えず、単なる不快な思いをしただけとも言えますが、JRになってからよりも国鉄時代の方が規則が変わった時など末端にきちんと伝わらないことが多かった気がします。
それにしても利用客に対する口の利き方、国鉄時代は酷い職員も多かったです。もちろんきちんとした話し方の職員の方が圧倒的に多かったのですが今じゃ考えられないです。
●長時間停車中に運転手が弁当を食べる!
これも1980年8月に実際に見た出来事でした。
この年は私が北海道を一番長く旅した時だったのでエピソードも多くなります。
昔「札幌発、札幌行き 循環急行いぶり」というローカル急行がありました。
(正式な列車種別は”循環急行”ではなくて”急行”となります。循環急行は通称です。)
以下のようなルートを走っていました。
(クリックで拡大し別タブ/ページで開きます。)
Google mapに私が加筆したのもです。
伊達紋別駅から倶知安(くっちゃん)までは胆振線(いぶりせん)という83.0kmにも及ぶ路線ですが、ここは1986年11月1日に廃止になっています。
この「急行いぶり」は倶知安から伊達紋別方向に向かう列車と、その反対の伊達紋別から倶知安方向に向かう列車が運転されていましたがいずれも「札幌発 札幌行き」で、総走行距離は327.9㎞にも達していました。
これは東京駅から愛知県の岡崎駅の距離(325.9km)とほぼ同等になります。
所用時間はおおよそ5時間半~6時間強くらいでした。
「急行いぶり」の詳細は近いうちに別途記事を書きたいと思うのですが、胆振線内のいくつかの停車駅の中で新大滝あたりだったかと思うのですが(正確な駅は全く覚えていません。)、急行列車なのに単線の行き違いのために10数分超停車時間があったのです。
当時はこんなローカル線でも夏は大混雑していて、乗客の殆どは周遊券だけで乗れる観光客なのでホームに降りて撮影したりして思い思いに過ごしていました。
私もその一人でしたが、列車前面に行くとなんと運転手が運転席で弁当を食べていたのです!
この場面は強烈に覚えています。しかも奥さんが作ったであろう手弁当でした。(当時はコンビニや弁当専門店などは殆ど無かった時代)
10数分超という停車時間は乗客からすればとんでもなく長い時間ですが、弁当を食べるにはちょっと忙しくなる時間ですね。
運転手氏はかき込むように急いで食べていました。
もし今の時代だったら乗客にスマホで撮影されて、即鉄道会社のお客様相談室などに送信され、その日の夜のネットニュースやTVなどを賑わすことになっていたでしょう。もちろん運転手氏は何らかの処分を受けていたはずです。
私の感想としては半世紀近く前を鑑みると「ローカル線だし運転中でないから」くらいにしか思えませんでした。
社会全体が多分許容するようなワンシーンだったのでは、と考えます。
良い悪い以前に「時代を感じさせる」、「古き良き時代の一場面」という事だったと言えるでしょうか。
以上思い出した範囲で書いてみましたが、他にも「ええ!」と思うような出来事はたくさんあったはずです。
時代の流れとはいえ今では許されない行為も多く含まれていますが、逆に「今でも良いじゃないか!」と思われる行為を撮影して鉄道会社に言いつけたり、SNSで大騒ぎする人も増えてしまいました。
驚くのは鉄道会社や車両によっては運転室の後ろのガラスに「運転手が停車中に水分補給をすることがあります」とか「業務用の携帯電話を使う事があります」などのステッカーを貼っていることがあるのです。
そこまでしておかないと問題視されるのか?と疑問に思います。
(撮影などして騒ぐ人の多くはSNSで再生回数を稼ぎたいから、目立ちたいからと言う人が殆どだと思いますが)
まあこの記事は「昔はそんなこともあったんだ」くらいにお読みいただければ幸いでございます。
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おひさしぶりです。日吉に実家があったものです。
50年ぐらい前の小学生の頃、
日比谷線の車掌室に入れてもらった遠い記憶があります。
おまけにドアの開閉スイッチまで操作させてもらったんですよね。
おおらかな時代でしたね。
日吉駅には仲がいい駅員さんがいて、使用済みの珍しいキップとかよくもらいました。
そうしたいろんなグッズはスクラップブックに入れて取っておいたはずなのですが、実家を処分する際にすべて夢の島行きになってしまいました。
北海道はまだまだ寒い日が続いていると思いますが、お身体に気をつけてくださいね。
もるちゃん様
コメントありがとうございます。ご無沙汰です。
日比谷線で!これは驚き!東京の地下鉄でなんてありえないですね。
しかもドア開閉まで。明らかな内規違反なんでしょうが、それを会社に言いつける人も手段も無かったんでしょうか。
スマホが無くても駅員に報告、とかは出来たのですが皆さんしなかったんですね。
札幌はやっとまとまった雪から解放されて、路肩の一部を除き夏のような風景になりつつあります。
最高気温も8度超になる日が今日から続くようです。
連日の気温が5度を超えると「暖かくなってきたな」と感じます。
また当サイトへお越しくださいね。