えりも岬ユースホステル
最果ての地にあったえりも岬ユースホステル
北海道・襟裳岬近くに「えりも岬ユースホステル」がありました。
襟裳岬の場所は以下となります↓
(クリックで拡大し別タブ/ページで開きます。)
Google mapで見たい方はこちらをクリックして下さい。
本記事では「えりも岬ユースホステル」の「ユースホステル」は以下、「YH」と略させて頂きます。
ユースホステルをご存じでない方はこちらの記事をお読みください。
北海道全体の地図で見てもまさに「最果て」の文字がふさわしい場所とも言えます。
この地にあった「えりも岬YH」は私にとって忘れることの出来ない一夜の宿でした。
忘れられない宿、と言っても実は私はこのえりも岬YHはたった1泊しか泊まっていません。
しかもウン十年も前の話しです。でもどうしても忘れられない宿なんです。
泊まった日に特別な思い出を作ったとかがあるわけでもありません。
でも「忘れられないYHをあげると何処か?」と聞かれたらタイ1位でいくつかあるのですが、確実にえりも岬YHも入ります。
そんなえりも岬YHについて書いてみたいと思います。
遥かに遠い遠い えりも岬ユースホステル
私がたった1泊だけ泊まったえりも岬YHは遠い遠い昔の1976年(昭和51年)8月9日(月)でした。
その時持って行ったガイドブックに記入したメモの一部が以下となります。
(クリックで拡大し別タブ/ページで開きます。 「ブルーガイドパック 北海道1975年版」の1ページより)
前日は札幌の親戚宅に泊まり、札幌から様似(”さまに” えりも岬の最寄り駅)まで今は無き直通急行の「急行えりも」の自由席に乗ったのです。路線は日高本線と言います。
途中の苫小牧から終点の様似まで146.5㎞は全線単線非電化のローカル線でしたが、当時は北海道ブームで「周遊券片手に列車で旅をする」というのがトレンドでしたので8月はどの列車、車両も満席でごった返していました。
ましてや当時は道内の高速道路も充分に整備されていなかったということもあったと思います。
「急行 えりも」の記事は別途書かせて頂きますので、札幌からえりも岬YHに向かった当日の事から簡単に書きます。
私の乗った「急行えりも2号」は札幌駅を昼の12:40に発車するディーゼルカーで、洞爺行きの「急行ちとせ5号」と併結した列車でした。確か「ちとせ」が6両編成、「えりも」は3両程度だったと思います。
この両列車は途中の苫小牧で分離されるのですが、苫小牧から終点の様似までが長い、長い・・・
様似に着いたのは8月とは言え日が傾き始めた16:45でした。
つまり札幌から4時間5分もかかったのです。しかも札幌発車時から終点の様似までほぼ満席。
自由席のBOXシートでしたが狭いシートピッチなので4人座ると対面の人どうしは足を交互に組合わせるように座らないとならないのです。これでも特別料金を取る「急行列車」でしたからね。(私は周遊券なので別途料金は払わなくてよかったのですが)
私の対面には札幌から乗って来た恰幅の良い50歳くらいのスーツ姿の紳士で、途中から色々と話しかけてくださったのですが、とても温厚な感じの人でゆっくりと丁寧に話すタイプでした。
途中苫小牧からは「ちとせ」と別れて進行方向が変わり、ひたすら日高地方の海岸線を走ります。
私は長時間乗車と初めての土地でいつの間にか転寝をしてしまい、気が付いたら浦河駅に到着していました。
目の前の紳士は「気を付けて行きなさいね」と一言声をかけて浦河駅で降りて行きました。
そしてボーっとした意識で太平洋を眺めながら定刻に様似到着。
ここからはえりも岬までバスが出ているのですが、接続時間は10分しかないので大勢の観光客と共に駅前のバス乗り場にダッシュします。
↓ 2024年10月26日に私が訪問した時の様似駅(跡)。バス乗り場は駅前広場の手前側か駅直ぐ右横だったと思う。
・この駅(及び日高本線の鵡川~様似間)は2021年4月1日に廃止になっています。
・以下の写真はクリックで別ページ/タブで拡大表示されます。
そのバスは列車と僅か10分の接続時間で16:55に発車しました。
バスもひたすら海岸線を走ります。様似は本州より大分東に位置しますが、でも8月の夕刻は日が暮れてもそれほど暗くはなりません。
↓以下が当日(1976年8月)のバスのダイヤと料金等の情報です。
(「交通公社の時刻表 1976年8月号」より。クリックで別ページ/タブで拡大表示されます。)
暫くするとまた睡魔が襲って来ます。でも「寝たらだめだ」と言い聞かせ車内アナウンスから「次はえりもです。」という声が聞こえ、多くの方が降りる準備をしたので私も降車したのです。
この「えりも」バス停には定刻ベースで17:35着です。
でも全然岬っぽくなく、周辺は多くの住宅と個人商店が立ち並んでいます。
間違えた気がして青くなり、バス停にいた地元の方に聞くと「えりも岬はまだここから大分先。このバスだよ。」という返事が・・・
あわてて再び同じバスに乗り込みます。確かこのバスは「えりも」バス停で5~10分停車があったので救われた感じでした。
車内を見ると様似発車時は多くの人が乗っていたのですが、明らかに観光客という感じの人は思ったよりも少なくて、みんな寝ていたようでした。
そして18:05に終着の「えりも岬」バス停に到着しました。
この時刻でもまだかなり明るかったのを覚えています。
そして潮風に吹かれながらすでに遅い時刻なのでひたすらYHを目指して歩きました。
今考えるとバス停からYHまではそんなに遠くなかった感じもするのですが、Google mapで調べると距離は1.4km、徒歩18分となっていました。
なおYHからほど近い襟裳神社すぐ前に「岬市街」というバス停があるのですが、様似から乗ったバスはこの岬市街バス停を経由しないので多分この日は終点のえりも岬バス停まで乗ってそこからYHまで歩いたんだと思います。はっきり覚えていないけど。(以下の地図を参照)
当時は若かったし、18時過ぎに着いてクタクタに疲れていたので距離を感じなかったのかもしれません。
↓襟裳岬を中心とした観光ガイドの1ページ(1975年版 ブルーガイドパック 北海道 より引用)
(クリックで別ページ/タブで拡大表示されます)
えりも岬ユースホステルでの一夜
まずえりも岬YHの場所について写真を載せておきます。
襟裳岬とYH界隈の位置が分かる地図が以下となります。
以下の2枚は「国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」に加筆したものです。
(2枚とも1977年/昭和52年9月23日撮影)
https://service.gsi.go.jp/map-photos/app/map?search=photo
(いずれもクリックで別ページ/タブで拡大表示されます。)
日が暮れてクタクタになってたどり着いたえりも岬YHは8月、そしてYHでの旅行が全盛期という事もあり、多くの客(ホステラーと言う)でごった返していました。
YHの利用に年齢制限はありませんが、YH全盛時代という事もあり宿泊者のほぼ100%は10代後半~20代の若者だけでした。
外から見ると「大いなる長屋」、中に入ると木造りの典型的な「古い昔からのYH」でした。
受付カウンターも木で作られていて食堂や廊下、寝室も「木」そのものでした。
1990年くらいまでのYHを複数個所泊った方ならば賛同して頂けるのではと思うのですが、全盛時代のYHはおおむね以下の4種類の建物と”匂い”がありました。(もちろん個人によって感じ方には大きな差があります。)
●木を中心として作られたYH
えりも岬YHもその一つ。これも大いなる長屋風や、大き目の個人宅のような建物(例:もんべつ流氷の宿YHなど)など様々。館内に入ると古いものだと木の匂いはせず、築年数の長い普通のお宅のような匂いがした。
殆どが民営(契約型ともいう)のYH。
●大きな三角屋根が特徴の「いかにもYHです」的、あるいは「若者向け研修施設みたいな風」の建物
内部も典型的な研修設備というもので合理的には出来ているけれどまったく味気ない、でも逆にYHらしさが溢れているという建物だった。館内はコンクリート臭と湿った匂いが混じった独特の「研修設備らしい」匂いにあふれていた。
学校の宿泊研修や修学旅行に使用される市や区の設備が思い出された。(例:北湯沢YH、最初の支笏湖YH、美幌YHなど)
YH協会直営が多い。
●コンクリート造りの研修設備、という建物のYH
収容人数的には100人超の大規模なところが多く、多くが公的機関などが建設運営していた。
(もちろん私企業によるものもあった)
元々学生の研修設備、あるいはYHと兼ねているところが殆どだと思われる。建物によってはちょっとカビ臭かったりしたが、おおむねコンクリート臭以外は無臭に近かった。
(例:帯広YH、札幌ハウスYHなど) 公営またはYH直営が多かった。
●ホテルや旅館の一部をYHとして提供
ホテルの別館、あるいは旧館など一部をYHとして使っていた。想像なのだが高度経済成長期にYHでの若者の旅が流行り始めた時にホテルが客数と回転をこなすために「アルバイト的」な感覚でYHを始めたような気がする。あくまで想像だけど。
匂いは無機質なコンクリートのホテル、廊下に相当な歴史がありそうなカーペットが敷きっぱなしの古い建物だと少々のカビと湿った匂い、など千差万別。
殆どが民営経営。(例:塩狩温泉YH、白金温泉、根室玉屋など )
さてYHに到着した私は数えきれないほどのホステラー(宿泊者)に紛れて夕食を慌ただしくとって、やっとYH内の雰囲気を味わうことが出来ました。
YH内、と言っても巨大ホテルのようにあちこち歩きまわって散策なんて出来ないのですが、多くのYHは食堂と受付け付近を見渡し、あとは自分の寝室(とはいっても多くのYHでは8~12人の相部屋だが)をチェックすればそのYHの全容の95%は分かるのです。
だからえりも岬YHも食堂中心に見るしかありません。
とにかく人が多い、その中で目に入ったのは受付横にあったちょっとしたお土産でした。
お土産と言っても絵葉書や小さな手作り?のアクセサリー程度でしたが、YHで本格的にお土産コーナーがあるところはホテル兼業でない限り殆ど見ることはありません。
私は絵葉書を買って上野駅で見送ってくれた小学校時代からの東京の友人に送りました。
今でも文面を覚えています。「とにかく人が多いよ。それにあまり奇麗じゃないな」なんて書きました。YHの方々、えりも岬YHを愛する全ての人にお詫び申し上げます。
このYHは北海道内でも有数の大騒ぎのミーティングをするYHなのですが、内容を覚えていないんです。
宿泊した日とこの日記を書いている年月があまりにも時間が経ってしまったからが最大の理由なんですが、とにかく人が多くてごった返していたとしか覚えていません。
でもこの旅行で他のYHでのバカ騒ぎミーティング、あるいは「静かにお茶を飲むだけだった」とかは覚えているので、もしかしたら当日のえりも岬YHは騒ぐようなミーティングはやらなかったのかもしれません。
そして22時の消灯時間には札幌からの長い旅程の疲れがどっと出て溶けるように眠ってしまいました。
えりも岬YHは後に「民宿仙庭」という名称の民宿として営業継続していましたが(YH時代の経営者)残念ながら2017年5月27日に閉館してしまいました。
えりも岬ユースホステルは大変多くのファンがいたYHでたった1泊しただけの私なんて足元にも及びません。
なのでネット上には多くの常連さん、ファンの皆様がアップした写真も上がっているようです。
そんな中で貴重なお写真や動画を見つけましたので張り付けておきます。
動画のリンク切れはご容赦願います。
↓民宿『仙庭』 (旧: えりも岬ユースホステル)のTV放映 (2011/7/9)↓
↓民宿『仙庭』 (旧: えりも岬ユースホステル)のTV放映 (2008/06/18)↓
以下の3枚は、
スチャラカでスーダラな日々 様
https://ameblo.jp/megomegoco/
からの引用でいずれも1985年(昭和60年)の夏です。
(クリックで別ページ/タブで”少しだけ”拡大表示されます)
↓えりも岬ユースホステルの「母さん」
以下3枚はGoogle ストリートビューからの引用です。
(いずれもクリックで別ページ/タブで拡大表示されます)
↓この2枚は2014年8月撮影。つまり民宿として営業中。
↓1枚目の屋根にユースホステル名が見えるのと、道路脇の看板に「民宿 仙庭」の文字が読める。
↓2024年8月撮影。すでに解体後で瓦礫と思われるものが・・・
上述2014年8月撮影の1枚目の写真とバス停の位置関係を確認してみてください。
以下の写真も建物の位置と方向が頭に浮かぶと思います。空しい・・・
2024年10月の襟裳岬
最後にオマケです。
以下の7枚は2024年10月26日に私が札幌の自宅から日帰りで襟裳岬に行った時の写真です。
(往復約470㎞!! しかも日高本線廃線跡を巡りながら!!)
襟裳岬にはもう何年も、何十年も行っていない人も多いと思います。
札幌からにせよ、東京からにせよあまりにも遠いですからね。
そんな方に青春時代に訪れた襟裳岬の最新映像に浸って頂ければ幸いです。
(いずれもクリックで別ページ/タブで拡大表示されます)
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