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旅先での名も知らないまま別れた出会い

旅では名も知らないまま別れる出会いがある

 

様々な形態の旅があると思いますが、全ての旅に共通しているのは「名も知らないまま別れた出会い」があることだと思うのです。

これはリュックを背負ってひたすら歩く野性的ともいえる一人旅、多くのツアー客と一緒にツアーガイド付きで行くまさに観光旅行と言える旅でもあり得ることです。

私の旅での出会いはほぼ全て国内ですが、無数ともいえる数の旅をして、それと同じ数だけの様々な出会いがあったと思います。

出会いの無い旅はない

旅はどんな形態であっても「出会いのない旅は無い」と断言できます。

その出会いとは人によって捉え方が異なるとは思いますが、帰宅後も関係が続く人、たった数分話しただけで名前も何処の人かも分からず別れてしまって、ただその時の思い出だけが残っているという人もいるかと思います。

でも後者の「たった数分(或いは数時間)話しただけ」の事を何年も何十年も忘れられないというのは凄い事だと思いませんか?
まさこれぞ「懐古趣味」の真骨頂では?と思います(ちょっと大袈裟かも?)

どんな出会いを経験した?

私の記憶の範囲で印象深い出会いをいくつか書いてみます。
以下は遠い遠い昔の記憶を辿ったものばかりなので、覚えていた年代や場所などに多少の間違いはあるかとは思います。
しかし創作はいっさいありませんので「へぇ~」という気持ちで読んで頂ければ幸いです。

常磐線の車内での学生との出会い

昭和40年代前半くらいに小学校低学年だった私は夏休みに母と茨城の海に2泊で出かけました。

旅程としては上野から常磐線に乗って(あずき色とクリーム色の各駅停車でした。)水戸の一つ先の勝田まで行き、勝田からは茨城交通線(当時の名称、現在のひたちなか海浜鉄道)に乗り換えて終点阿字ヶ浦の一つ手前の磯崎という駅まで行く事でした。

磯崎駅からは徒歩10分くらいだったと思いますが、「丸十 → 実際は〇の中に十の文字」だったか単に「丸十」だったかの名称の民宿に行きました。

狭い田舎道を歩くと道路左側に敷地がやたらと広く、古い日本家屋の堂々とした建物が目に入りました。
ここに2泊したのですが、思いのほか多くの宿泊客がいてびっくりでした。

 

さて肝心の出会いと別れですが、常磐線は向かい合わせのボックスシートでした。私と母は進行方向に向いて左側に座ったのですが、正面には高校生くらいのお兄さんが上野から乗っていました。

時代が時代、ということなのでしょうが、学ランに制帽を被っていたのですが鞄類は持っていなかったと記憶します。
イメージだと以下のようなお兄さんでした。昔の映画やドラマに出て来るような感じですが、当時は普通だったのかもしれません。

(AIで生成。実在しない人物です)

上野を出てしばらくするとお兄さんは私たち親子が遠くまで行く雰囲気に見えたのか、色々と話しかけて来ました。
話しの詳細はあまり覚えていませんが、このお兄さんも私と同じ勝田駅で降りると言っていました。
そしてこれだけは忘れられない彼の話しは、

「水戸駅と勝田駅の間に那珂川という茨城県でも非常に大きな川があるんですが、この川はたまにですが死体が流れてくるんですよ。私も見たことがあります。」

と涼しい顔で言っていたんです!

いくら小学校低学年であってもとても衝撃的で「えええええ!!!!」と思いましたね。
声は出さなかったけど物凄く緊張して体がひきつった思いをしたのを覚えています。

母は「へぇ~」くらいの受け答えだったと思いますが、今でもお兄さんの話しは忘れられないほど衝撃でした。

今の時代を基準に考えると「そんな馬鹿な」とか「彼は話しを作っている」と思ってしまいますが、時代を考えると無いとも言えないと感じます。
当時の日本の風景、時代考証などはネットでもある程度昔の映像が見れますし、レンタルDVDショップなどで円谷プロの名作「ウルトラQ」を見れば当時の日本、東京の風景を見ることが出来ます。

それらを見ると街中を流れる川さえもきちんとした護岸工事が行われていなかったり、道路も未舗装で水たまりがあったりなどを知ることが出来ますので、地方の大きな河川に(たまになら)死体が流れて来てもおかしくなかったのではと思うような時代でした。

そしてそのお兄さんと一緒に勝田駅で下車し、そのお兄さんは改札から出るのにわざわざ私たちが乗る茨城交通線のホームまで案内してくれたのです。

死体の話しはびっくり仰天でしたが、とても優しい感じの良い人だったので私は母に「お兄さんと親戚になれば良いのに!」なんて勝田駅のホームで話したことも覚えています。

私に微笑んでくれた幼児

1980年8月25日(だったと思う)に私は北海道旅行からの帰路に着くために青函連絡船を降りて、常磐線経由上野行きの「急行十和田」の車中にいました。進行方向左側(太平洋側)の窓側席です。

夜行列車なので窓の外を流れる街の明かりを眺めていると自然と瞼が重くなります。
上野までは約12時間もの長旅です。

目が覚めると東の空が大分明るくなっていました。どこを走っていたかは分かりませんが時間の経過とともに車内も人の動き、声が目立つようになります。

半分ボーっとして片肘を付いて車窓を眺めていると私の前の席にはお母さんに抱かれた小さな子どもがいました。
性別は分からないほど小さな子、生後半年~1歳行くかどうかくらいの「赤ちゃん」でした。

その子が私の方を向いて言葉は発しないけれどニコッと笑いかけてくれたんです!
私が何か面白い表情を作ったりしたわけではありません。
でもその子は40数年経った今でも忘れられないほど素敵な笑顔を見せてくれたんです!

自分の子どもも含めて小さい子どもの笑顔というのは本当に素晴らしいものです。
でもこの時の笑顔が一番印象に残っています。なぜだろう?旅の途中だったからかもしれませんが、私にとってとても素晴らしい旅の終わりの思い出をプレゼントしてくれたんだと今では思います。

彼or彼女に感謝です。(今では50歳かその直前くらいの年齢になっている事でしょう)

ユースホステルの同室で過ごした学生

1980~1982年頃の8月に北海道を旅した時のことです。
今は無き道東の深い山中にあった「野中温泉ユースホステル」での思い出です。

野中温泉ユースホステルについてはこちらの記事をぜひご覧下さい。

ユースホステル(以下、YH)は8人前後が同室となる「男女別相部屋」が基本ですが(例外あり)、この時同室になった大学生がいました。

何処の人か忘れましたが私と同じ関東の人だったと思います。
とてもフレンドリーな陽気な大学生で、私たちはすぐに打ち解けて仲良くなり、いろんな旅の思い出も語り合いました。

その時私は3泊くらいしたのですが、彼は学生で当てもない旅という事らしく、結構長く野中温泉YHにいる予定だったようです。

その他にも同室には親しみやすい人ばかりでとても恵まれた部屋に泊まることが出来ました。
(YHは相部屋なので時に「取っつきにくい、出来れば避けたい」という人と同室になることも多いのです。)

彼はいつもニコニコしていていろんなことを話してくれます。
それは嬉しい事でもありますが、一つだけ「え~~~!!」と思う事がありました。
どんな話のついでだったかは忘れましたが、ベッドに置いた自分の鞄を指さして、「財布はいつもここに入れているんです!」と
ニコニコしながら財布の場所を説明してくれるんです!

悪い言い方をすれば「どうぞお盗み下さい」と言っているようなもんです。
彼が部屋から出た時に別の同室の人と「あんなこと言っちゃいけないよね。本当に盗まれちゃうよね」と私は顔を見合わせながらこっそり話しました。

幸い私が滞在中に彼は盗難被害などは無かったようですが、その彼の性格からいうと私が野中温泉YHを出発した後、あるいは彼が他のYHに泊まった時に同じような事を言っているのでは?と心配になってしまいました。

そして私が旅立ちの日、野中温泉YH前から乗ったバスを姿が見えなくなるまでバスを追いかけて手を振ってくれたのです。

こういう見送りはYHに泊まればあちこちで経験して来ましたが、この時はいつも以上に胸がじーんと来ました。
結局連絡先の交換などせずに別れたので帰宅してから会ったりすることは出来ませんでした。

心を開いてくれたこと、バスが見えなくなるまで走って見送ってくれたこと、忘れる事は出来ません。
でも財布の場所についての話しは今でも心配になってしまいます。
彼はその後どんな人生を送られたのか?今は多分50代後半、60代になっているはずですがご家族と幸せな日々を送っていればそれでよいと思います。

 

時間をかけて思い出せばもっとたくさん出て来ると思います。
このような出会いは私にとって旅先だけではなかったからです。
恐らく一生懸命思い出して書き出せば膨大な量の記事になってしまいます。今回はここまでとし、また思い出した時に書かせて下さい。

皆様もこのような思い出を大切に。

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こんにちは。私の名前は「 ノンダクレー」と申します妻子持ちの普通のクソ親父であります。
東京で生まれ育ち、横浜市に長いこと住み、現在は北海道札幌市におります。
色々と思う事が多くなる年齢、このサイトで「懐かしい街と物」をお楽しみ頂ければ幸いでございます。

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