懐かしい切符と列車の話し(3)
懐かしい切符と列車の第三弾です。
【本記事内の写真はすべて友人からご提供頂きました。この場を借りてお礼申し上げます。】
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本シリーズもいよいよ最終章です。ってたった3回しかやっていませんけど。
まずは「東海道新幹線ひかり」の切符から。
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昭和57年11月4日ですから1982年、2017年基準で今から35年も前の切符です。
乗車券・特急券・グリーン券入れて京都から東京まで15500円ですから35年前の新幹線グリーン車として考えると安いですね。
当然「のぞみ」デビューのずっと前で「0系」電車しかなかった時代です。「ひかり」の最高運転速度も1964年開業時の210km/hのままで東海道新幹線としては変化がない時代でした。ただ本数だけは年々増えていきましたけど。
参考: 東北新幹線が1982年に大宮発で開業していて、この時の車両は200系という名称でした。実は東海道の0系は200系デビューまでは「新幹線電車」という名称が正式であり「0系」というのはマスコミが付けた名称が広がったと言われています。
しかし200系デビューにあたり東海道の車両と区別する必要があったので、国鉄(当時)も「0系」という名称を採用することになったそうです。
北陸・上信越方面の列車
東京から新潟方面の上越新幹線開業前は多くの列車が走っていました。
↓「とき」の昭和55年(1980年)の特急券です。
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「とき」はのちの上越新幹線の列車名に継承されました。
「とき」だけで後年は1時間に1本運転されていたそうなので昔から東京(上野)~新潟の連絡は如何に重要だったかがわかります。
でも最速で3時間50分もかけていたんですね。上越新幹線の最速列車ならば1時間30分台なんですが。
まあ険しい峠越えがありますし、当時の運転手の苦労話を読むとダイヤ通りの運転がかなり難しい区間であり、電車特急といえども勾配に対してパワーの余裕がないので満席の列車で遅延がある時は大変だったそうです。
また豪雪地帯を走りますが上越新幹線のような万全の設備などありませんから「遅れが遅れを呼ぶ」という状態にしょっちゅうなっていたようですし、過去の記録を見ると、1963年(昭和38年)1月には三条駅で豪雪のため足止めとなり新潟駅には20時間10分遅れで到着、同じ月に上り「急行 越路」が吹雪で動けなくなり上野到着がなんと6日遅れだったそうです!
このような厳しい気象条件の中で都市間連絡をするためにもすべての設備を刷新した上越新幹線の開業は心待ちにされていたのでしょう。
↓「あさま」の切符です。クリックで拡大します。
今は北陸新幹線の列車名になりました「あさま」です。
上野~軽井沢~長野を結ぶ重要幹線の名列車ですね。
私も何度も乗りましたがやはり一番の思い出というか、楽しみは「碓氷越え」でした。そうです横川~軽井沢間の碓氷峠越えです。
最急勾配66.7‰(1km進むと66.7m登る坂)というラックレールを使わない鉄道の限界に近い急勾配で、登山電車ではなくて列車回数が非常に多い幹線鉄道としては世界的に見ても異例の急勾配なのです。
横川または軽井沢で勾配対策のために坂の下り側(横川側)に機関車を併結しますが、この峠を越える時に空気バネを使っている台車は全て空気バネの空気を抜いて「パンクさせる」というのをご存知ですか?
この峠の途中で急ブレーキをかけると空気バネ搭載車の軽井沢側の車体が持ち上がり台車と車体が分離してしまう現象が起きるからです。
アプト式から通常の粘着運転に切り替える時に実際に165系電車で実験をしたところそのような現象が起きてしまい大変に危険という事が分かったからです。
ですからこの区間ではいきなり乗り心地が悪くなり、レールのジョイントの衝撃が車内に直接伝わって来るような感じがしました。
碓氷峠通過速度は20~30km/h程度ですが、ここでブレーキが効かなくなったりするとあっという間に100km/h超に達してしまい、何をやっても停まらなくなります。ですから併結する機関車・EF63は滑走や空転を起こさず確実に速度検出が出来るように専用の速度検出用車輪が付いていました。
碓氷峠越えの苦難についての詳細は他サイトに譲りますが、多くの事故やトラブルから学んで安全に通過できる峠になり、そして新幹線に繋がったのです。
感慨深いものがあります。
碓氷峠越えのために機関車の連結と開放作業があり、しかも非常に低速で通過しますので特急でも高崎~軽井沢は1時間くらいかかっていました。
でも新幹線だと同区間をたった15分で走破するのですから驚愕と言わざるを得ませんね。
↓以下も北陸を駆け抜けた名列車ですね。
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「白山」と「加越」では走行区間が異なりますが、いずれも峠や豪雪といった大変に厳しい区間を走ることに変わりはありません。
日本海側の雪は湿気を大量に含んでいますので電気機器やポイントなどの故障のタネだったようですし、当時の車両は高性能(当時としては)の特急型電車だったとは言っても、現在の車両のように高出力軽量の交流モータを積んだ車両に比べると性能面では大きく劣りますので遅延時の回復運転などは大変だったと思われます。
3回にわたりお伝えしてきましたが、ご紹介した列車は「完全に消滅したもの」、「名前だけは継承されたもの」など色々ありますが本記事で「あの日の旅」に少しでも戻ることが出来たら本サイトとして最大の喜びでございます。
「あの日を旅する」記事を今後もお伝えしていきたいと思います。
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