野中温泉ユースホステル(北海道 雌阿寒温泉)
【2021年2月16日追記】
本日「北海道・野中温泉ユースホステルの1976年の写真」という関連記事をアップしましたのでぜひご覧下さい。
北海道の野中温泉ユースホステル
北海道の道東、雌阿寒温泉(めあかんおんせん)に野中温泉ユースホステル(以下、野中温泉YH)がありました。
ここは北海道で一番好きなYHで、季節を問わず数え切れないほど行きました。
山の中で雌阿寒岳の麓にあり、山が崩れたら一巻の終わりという場所で、とにかく交通が不便な場所でした。
素晴らしいYHで多くの人に愛されましたが残念なことに2011年3月31日にYHは閉鎖されて日帰り温泉となってしまいました。
建物も取り壊されて簡易な温泉場となりました。でも併設の国民宿舎は残ったようです。
なお野中温泉は「本館がYH」で「別館が国民宿舎」でした。
普通は逆なんですけどね。
以下は2010年9月撮影の野中温泉YHです。閉館半年前の写真です。
(クリックで拡大します。)
↓左側が別館の国民宿舎。右奥がYH
↓野中YHの玄関(初めて行った1976年と変わっていない)
↓国民宿舎の文字が塗りつぶされているがYHの食堂部分
なおYH閉鎖後は行っていないのでその後の写真を持っていません。
こちらのサイトを参考にして下さい(万一リンク切れはご容赦下さい)
恐らく日本中でトップクラスのユースらしさの野中温泉YH
私が初めて野中温泉YHに泊まったのは1976年8月12日。
ユース全盛時代の後半という感じだったと思いますが、とにかくこの時代のYHは何処も「熱かった」時代でした。
特に北海道と南の島(沖縄、その他全般)の両極のYHは狂ったようなYHが多く、その場所に旅行に行くのではなくてYHが目的で行くという人も非常に多かったのです。(私も含め)
当時一番好きなYHは野中温泉YHでした。
夏は連日のように歌い、踊り、バカ騒ぎのミーティング。
食事の時は放送で、「エサ~!」と喚いてのご案内(その時のスタッフにもよりますが)
そして「うちの裏山」とYHのスタッフが言っていた雌阿寒岳と阿寒富士のご来光登山。
「愛とロマンの8時間コース」とかありましたね。この時代に泊まった事のある人ならばご存知と思います。
雌阿寒岳と阿寒富士を両方巡って約8時間という登山コースでした。
私は8時間コースの他に、雌阿寒岳のご来光登山もしました。夜中の12時半頃に起きて満天の星を見ながら登るんですね。
きつかったけれど本当に素晴らしい思い出でした。あの星空は一生忘れられません。
そしてやはりYHから歩いて30分も掛かりますが、山中にひっそりとたたずむ小さな湖のオンネトー。
本当に美しい湖です。晴れていれば正面に雌阿寒岳と阿寒富士が見えます。水の色はエメラルドグリーンでした。
オンネトーには天然記念物のサンショウオがいるそうですが、相当な回数通っても見たことはありません。
また湖底からガスが噴出しているそうで、魚が住めないそうです。
2010年9月にオンネトーに行ったときの写真も載せます。でもこの日は雨で全然ダメでした。
まあ雰囲気だけでも。
(クリックで拡大します。)
↓晴れていれば正面に左側に雌阿寒岳、右に阿寒富士が見れます。
↓この色がオンネトーの特徴です。
猛烈に交通が不便だった野中温泉YH
こんなに素晴らしい野中温泉YHですが、素晴らしく交通が不便でした。
マイカーやレンタカーならばさほど問題はありませんが、北海道ワイド周遊券を毎回使っていた私にとっては行くのも帰るのも大変でした。
夏は阿寒湖畔のバスセンターから直行バスがあり約40分くらいだったと思います。
でも冬は無いんです。ではどうやっていくかと言うと阿寒湖畔、または足寄駅(旧国鉄池北線・現在は廃止)前からバスに乗ります。
このバスは国道241号線を通ってそれぞれ阿寒湖畔行き、足寄駅行きなのですが冬は1日に1~2往復になります。
そして野中温泉やオンネトーに分岐する場所の「登山口」というバス停で降りるのです。
このバス停は今は廃止されていますが場所はこちら(Google map)です。
そしてこのバス停から野中温泉YHを目指して3.6kmの距離をひたすら歩くのです。
冬でも吹雪いていなければ50~60分くらいで歩けます。長い登り坂もありますが勾配自体はきつくありません。
途中で真正面に雌阿寒岳が迫ってくるように見えるのは圧巻でした。
バス停から阿寒湖畔に出る人が多かったと思いますが、そこから釧路や美幌に抜けるにもまたバスに乗継です。
このバスも冬は日に数本に激減しますので、場合によっては阿寒湖畔で数時間待つこともありました。
だから冬に野中温泉YHに行くには前後の時間をたっぷりとる必要があったのです。
だから「野中温泉YHに行くことが目的」の人しか冬は行かないですね。
また冬に吹雪が酷いとバス停まで歩いてもバスが運休になっている可能性もあり、そのような日は移動せずに連泊をしました。
でも連泊しても何もやることが無く、オンネトーも吹雪だと危険、それどころか基本的に除雪されていないので自分で雪を掻き分けなければならないのです。
だからYHで昼寝をしたり、温泉に入って一日を過ごします。でもこれが楽しかったんですよ。
大晦日も何度もここで年を越しましたね。当時は大晦日も10数人は泊まっていたと思います。
あ、思い出しました。元旦と2日は241号線を通るバスは運休でした。だから正月にこのYHに行くのは本当に「覚悟」がいるのです。
野中温泉YHのまとめ
色々と書きましたが、その他のこのYHに纏わる話しをまとめておきます。
1度でも泊まったことのある人、泊まりはしないけれど北海道内あるいは他の地域のYHでうわさを聞いた人には懐かしいと思って下さるでしょう。
●入ってすぐ右側の壁(受付の場所)にはスタッフの名前が模造紙で貼り出されていて、「丁稚」とか階級が書いてあった。
●夏は前述のように連日歌って踊って騒いで凄まじいミーティング。ヘルパー(YHのスタッフのこと)はいつもギターを首にかけていた。
●国道241号線の「登山口バス停」の事を「のぼりやまぐち」というヘルパーがいて、バス停を利用するホステラー(YHに泊まる人のこと)を惑わしてさらに連泊させようと企んでいる人がいた。
ホステラーが「とざんぐちバス停ですよね?」と聞くとヘルパーは「違います。のぼりやまぐちバス停です。」と返していた。
●冬は流石に人が少ないのでミーティングも静かにお茶を飲んで話しをするだけ。
歌うこともあったが夏みたいに騒がなかった。
●ここの温泉は非常に硫黄分が強い温泉なので石鹸が泡立たない。だからシャンプーで体を洗うように言われる。
●温泉場は木造りで電球が少しあるだけのやや薄暗い雰囲気のある温泉だった。
すぐ裏は雌阿寒岳の麓であり、温泉に浸かっているとよくエゾシカを見ることが出来た。 ●YHからオンネトーに行く途中の左側に「錦沼」というとても小さな沼があったが、ヘルパーはここを「メンネトー」と言っていた。
●YHを運営されている野中さんご夫婦とも知り合いになれて大変によくしてくださった。
ご主人は恥ずかしがりなのか表に出るのは好きでなかったみたいだった。
奥様は野中文子さんでメガネをかけた何処でも昔からいるお母さんだった。
確か釧網本線の止別(やむべつ)駅の方でお生まれになったと仰っていた。
ご夫婦には相当な年数お会いしていないがお元気で過ごされているだろうか?
確か男の子が二人いらっしゃった。
●1979~1981年ごろにいたヘルパーのゲタさん、何しているかな~?
●YH全盛時代の北海道のYHに泊まったことがある人ならばご存知の「ねむるオンネトー」はここで過ごしたヘルパーが作った歌。
歌詞も曲も本当に心に染みる美しい歌。今でも私の頭には3番まで完璧に入っている。この歌は1977年に歌手の青木清さんがレコードを出していてこのレコードを私は買った。YHで歌われていた多くの歌が入っている。
青木清さんとは1977年8月に美幌YHでお会いした。
「ねむるオンネトー」はYouTubeにも上がっていましたので一度お聞き下さい。
(いずれもリンク切れはご容赦ください。)
●野中温泉YHでは「ねむるオンネトー」の他にもYHの超超超有名曲の「旅の終わり」も必ず歌っていた。
この曲を聴くと今でも目頭が熱くなります・・・。
あと「遠い世界に」も定番ですね。
以上が野中温泉YHの思い出でした。
ネット検索すると同じ時を同じように過ごした人がたくさんいるようで嬉しくなります。
本当に青春、人生の大きな部分を占める経験でした。
【2017年6月23日追記】
私が2010年7月17日に阿寒方面を旅行した写真の中から足寄駅(既廃駅・現在バスターミナル、交流センター)内に野中温泉の案内が写っているものがありましたのでアップします。
全てクリックで拡大します。
↓足寄駅
以下↓3枚が待合室にあった案内です。
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昨日、初めて雌阿寒岳へ登山しました。
前日に野中温泉に入り、
すっかりここのお湯の質にはまってしまいました。
(とにかくお湯がいい! 肌がツルツルになりました^^)
もっと知りたくてネットで調べていたら
こちらに辿りつき、すごく良い話を読ませて頂きました。
私は世代が違うのでユースホステルは馴染みはないですが
本当に楽しそう!
そんな楽しいユースホステルが無くなってしまったのは
とても残念ですが、まだあの温泉が残ってて本当によかったと思います。
今の方が何代目かわかりませんが
ずっと残ってて欲しいですよね。
ちなみに髪を洗ってて、全然泡立たなくて、シャンプー足りなかったのかな?と思ってたんです。
なるほど!! やっばりそうゆうことなんですね。
さすが野中温泉です。
また行きたい温泉の一つとなりました~^^
YOSHIさま
こんにちは。コメントありがとうございます。そうですか登られたんですか!
私は今は体力なしのおじさんなのできついですが、若かりし頃に登った時は楽しいしか頭にありませんでした。
ここの温泉はそうですねシャンプーで体洗いましたね。
宿泊者で「俺は何が何でも石鹸で洗ってやる!」と力んでいた人もいましたが、結局はシャンプーで体洗っていました。
またオンネトー行きたいな。
でも遠いのですぐにはという感じです。
本サイトは私が独断で好き勝手なことばかり書いていますが必ずや皆様の思い出の旅のお手伝いが出来ると信じて頑張りますのでまた訪れてくださいね。
上の方の「サイトマップ」を見るとどういう記事があるのかがわかります。
ご訪問ありがとうございました。
今日野中温泉に行ってきました。ユース時は行ったことないですが多分湯船はそのままですしユースを営んでいた老夫婦がそのまま温泉を運営していると思います。また湯代がすごいです。200円(税込)このあたりがユース魂を感じます。
最近はユースに泊まるのもすっかりご無沙汰でもう10年以上利用していません。が、18年ぶりに京都の美山HMYHに来月行こうと思い今日行った野中温泉はたしか昔はYHだよな、と思い検索してここに至りました。
とてもよいブログですね。よくわかります。たしか利尻島のYHが道内で1番やばいYHと言われていたのも思い出し懐かしかったです!ありがとう
北空知かわうそ村 さま
こんにちは。コメントありがとうございます。
200円というのはびっくりですね!町の銭湯の半額以下です。
私もYHはだいぶご無沙汰です。全盛時代が懐かしく思います。
またお出で下さいませ。
ありがとうございました。
うわっ懐かしい!
私が伺ったのは1980年9月の始め頃、牧場実習を終えて
道内を旅行がてら東京へ帰る道すがらです。
愛とロマンの8時間コースでは実際にカップルも出来て
ましたねぇ~。 今後の週末に38年ぶりにオンネトー
に行ってみようと計画中です、楽しみ 楽しみ♪
南京豆さま
こんにちは。コメントありがとうございます。
多分南京豆さまも私に近いご年齢と思います。
あのときの野中温泉、そして北海道は本当に楽しかったですね。
私の旅にとって一番よい時期でした。
野中温泉YHはなくなってしまいましたが、オンネトーは健在ですので私もそのうち行こうと思っています。
なお昨年か今年前半にニュースで紹介された日本最高齢の野中政三さんは野中温泉創業者の息子だったと思います。
何度かお話しさせて頂いたこともありました。
また青春の旅を楽しみたいと思います。
今回のご訪問ありがとうございました。
またお出でくださいませ。
その『北海道周遊券』で旅していたがために、ここには一度も行ったことがない私です。
元ペアレントが国内最高齢者としてつい最近、新聞紙上を賑わせていましたよね。
多くの常連ホステラ―がいたにも関わらず、ユースホステルとしての営業を閉じてしまったのは何故なんでしょうか?。
んにゃ様
コメントありがとうございます。
ここは交通が大変に不便なのに、阿寒湖に近いと来ていますから阿寒湖には泊まっても不便な野中温泉まで行く人は少ないのでしょう。
国内最高齢・・・
→確か野中温泉創業者のお子さんだったかな?
何度もお話しをしましたが、相手は私のことは覚えていないでしょう。
常連は金にならないのですよ。
ましてやこんな山中の不便なところですから。
通年営業でしたが賑わうのは夏だけです。GWもスカスカでした。
それとおおっぴらには言えない話しですが(既に言っている!)昔のYH常連は相当顔になると「宿泊費いらないよ」とヘルパーから(ペアレントからではない)言われて何週間も、1ヶ月もタダで泊まる人もたくさんいたようです。(全国的に)
こういう人はある程度ヘルパー業務を手伝って、ヘルパーでもありホステラーでもあるので一部からは「ホスパー」とか言われていました。
でもペアレントから見れば違法の厄介者なんです。
だって三食もタダなんですから(実際は踏倒し。ヘルパーがごまかしたりしている)。
もちろんペアレント公認で無料宿泊の常連も少数ながらいたようですが。
後日談で誠に恐縮ですが、9月の始めに野中温泉への
ン十年振りとなる再訪を果たしてまいりました。
流石に学生時代の様な呑気な日程ではなく、釧路空港
からレンタカーを利用しての駆け足旅でしたが。
登山口からの道路は今では綺麗に舗装整備されて
記憶に残る景観とは少々違っておりました。
それでも温泉本館の建屋内はまだ昔の雰囲気を残して
おり、コンコンと湧き出る湯に浸かりながら、当時の
事を色々と思い浮かべておりました。
再訪のきっかけともなるこのようなスレッドを作成
していただき感謝申し上げます。
余談ですが、「YHで知り合う友は一夜だけの友」
かと問われれば、あの頃は意外とそうでもなかった
と思いますね、あの娘は今頃どうしてるかな?(笑)
南京豆さま
こんにちは。コメントありがとうございます。
いかれたのですね!羨ましいな。
今私は札幌に住んでいますが、札幌から野中温泉行くなんてまさに地の果てに行く状態です。
東京などから行くのと変わらないどころか羽田~釧路間の飛行機使えば札幌から車や列車で行くより時間距離は近いはずです。
道路の舗装、の件ですが私の記憶の範囲では舗装されて既に30年超経っているはずです。
初めて舗装になったのを見た時のショックは隠しきれませんでした。
しかも舗装になると同時に大型観光バスがたくさん入って来るのです。
野中温泉とオンネトーはそっとしておきたい場所だったのですが、さらにTVやガイドブックでは「オンネトー湖」なんてでたらめな名称で紹介されたり抗議しようかと思ったくらいでした。
でも今でもオンネトーは荒されていないようですし、また訪れたいとは思っています。
野中温泉はYHが無くなったのは寂しいですね。
一夜の友・・・、人によりますが一夜までで無くても1ヶ月の友はたくさんいたかな?と。
もちろん今でもYHで知り合って30年(以上)付き合いのある人はいるのですが全部【男】です(笑)
10代後半の時、つまりYHに夢中だった頃は、
「将来絶対にYHで知り合った女性と燃えるような恋をして結婚して、結婚後も子供連れてYHに行くんだ!」
と情熱を持って思っていたのですが、適わず奥さんとは別の場所で知り合い、子供たちも私がYHの一人旅で身に付けた我の強さが遺伝したのか、「一人で行けば」と冷たい視線を頂いております(笑)
またぜひ当サイトにお越し下さいね。
ご訪問ありがとうございました。
男性の世界最高齢、野中さん死去 北海道足寄町
からここにたどり着きました。
初めましてよろしく。
私は1972年夏 オンネトーのYHでお世話になりました。
野中さんに多分お会いしていると思いますが?
古い記憶をたどると国道から徒歩で
もちろん周遊券&時刻表&予約なしのYH利用
YH周りにはキャンプ場?
オンネトー=野中温泉まで数分かかりました。
Aries様
こんにちは。コメントありがとうございました。
私も野中さんにはお会いしており、お話しした記憶もありますが、向こうは当然覚えていないことでしょう。
野中温泉YHは本当に素晴らしいYHでした。
私的には道内で一好きでしたし、一番YHらしかったと思います。
キャンプ場:ありましたね。でもオンネトーの奥のほうだったと思います。確か「野営場」と書いてあったはずです。
YHからオンネトーまでの距離:徒歩だと20~30分でした。オンネトー湖畔の駐車場までは2.2kmありますので歩くと結構遠かったです。
また当サイトにお越しくださいね。
こんにちは。
懐かしいですね。同じ頃?少し後に野中によく行っていました。最近、野中で知り合った友人と会ったので、亡くなられたおじいちゃんの話をしていました。
ゲタさん(京極さん)は今アメリカ在住のようです。Facebookの野中温泉ユースホステルを見ると当時のヘルパーさんのあれこれが載っていますよ
Ono様
こんにちは。コメントありがとうございます。
ゲタさんご存知ですか!
うわあ懐かしい名前!
アメリカとは・・・。
皆いろんなところで生きているんですね。
また当サイトにお越しくださいね。ありがとうございました。
40年前に北海道を旅して6ヵ所目のユースが中野温泉でした。
ユースそれぞれ色々な思い出があって、中野温泉の思い出は
「ねむるオンネトー」
をヘルパーさんにリクエストして歌ってもらった事かなぁ。
ミーティングは静かでした。
3年前、当時の思い出を訪ねて北海道を旅行しました。
オンネトー茶屋に行き、ご主人に野中温泉の事聞いたり、写真を見せていただいたり…。
その茶屋も閉められた様です。
nori様
こんにちは。
コメントありがとうございます。
40年前というと私も行き初めて北海道にハマった時期です。
あの頃の道内のYHはどこも活況でした。
あの時代ミーティングが静かだったとは・・・。
でも夏以外だったら静かでしたけどね。
「ねむるオンネトー」は本当に良い曲です。
今でもYouTubeで聞くことが出来ます。
歌詞も完全に覚えています。
それと「旅の終り」も。
懐かしい思い出です。
また当サイトにお越しくださいね。
nori様
こんにちは。
過日とほぼ同様の内容という事ですので削除させていただきました。
「ねむるオンネトー」は本当に美しい歌ですね。
でもさとう宗幸氏のは好きではありません。
最初に歌ったのは多分シャンソン歌手の青木 裕史さん(本名青木 清さん)だと思います。
彼はこの曲と「旅のおわり」をYH関連の歌だけが収録されたLP版で歌っています。
彼の歌声には聞きほれました。
昔このLPを持っていました。
また彼は1977年の夏にフォークソング歌手としてもデビューということで当時の北海道のYHを回って「旅のおわり」のキャンペーンをやっていました。
実は美幌YHに泊まった日に彼のイベントをYHで見ることが出来ました。
写真も撮らせて頂いたのです、すらっと背の高いかっこよいお兄さんでした。
今でも青木 裕史さんのサイトを見ると写真が出ていますが、昔の面影そのままで感激でした。
YHで歌われた歌は世間に知られていなくても本当に心に残る歌がたくさんありますね。
今日は。
旅の終わり YouTubeで聞いてます。
ユースで知り会う友人…私がカメラを持っていたので、住所を聞いて写真を送るのは私がやっていました。
男性でも写真を送ったらそれっきりという人と、しばらくやり取りをして会ったりした人もいました。
友達で結婚した者が二組います。
住所聞いたのも写真送ったのも私なんですが…。
北海道で宿泊したユース
イクサンダー大沼、札幌ライオンズ、あばしり原生花園、摩周湖、野中温泉、帯広、札幌ホワイトユース。
夏休み前だったのでホステラーも少なく、イクサンダー大沼では女性のホステラーは私達だけでした。
道中、ハプニングもあったり、思い出に残る旅でした。
長文すみません。
nori様
コメントありがとうございます。
今でもYouTubeで「旅の終わり」、「眠るオンネトー」などを聞けることはうれしい事です。
(ただしある日いきなり削除の可能性は高いですが)
「旅の終わり」は芹洋子さんも歌っていました。
彼女の歌唱力は言うまでもなく素晴らしいですが、こちらのVerは途中の歌詞がアレンジされたりしてがっかりでした。
本当に心に残る名曲はせめて歌詞と伴奏はオリジナルのままで行ってもらいたいです。
「YHで知り合って結婚」というのは非常に多そうに見えて実は物凄く少ないですし、せいぜい写真を送って終わり、その写真のお礼の手紙さえも来ないというのが9割以上だと思います。
以前あるYHで知り合った人たちで渋谷で宴会をやろう!という事になったのですが、前日幹事の人から連絡があり、
「皆の集まりがあまりにも酷いので中止にする。今日キャンセルの連絡が数人あったが、当日無断キャンセルもあり得るのでお店もキャンセルした」
とのことでした。
残念ですがYHで知り合った連中はこういう人が圧倒的です。
写真を送る時に住所は教えてくれても「どうせYHでの一夜の知り合い。あとあと続くことはないだろう」という前提が頭にあるのだと思います。
私はメールやSNSが普及してからYHは泊まっていないのですが、今だったら「メアド(或いはLINE-ID)教えて!」とかになるのでしょうね。
私だったら写真を送ってもらう住所はともかくこれらのSNS情報は絶対に教えません。
というか皆スマホを持っている時代なので「写真を家に送るね」なんてことはない時代なんでしょうね。
無くなったYHばかりで寂しい限りですが時代ですかね。
シャロームも好きな歌でした。
今日は。
原生花園YHでは 吉田拓郎さんの 落陽 をヘルパーが歌いました。
私の中では 原生花園YHが一番楽しかったところです。
nori様
コメントありがとうございます。
「落陽」は各YHで歌われ続ける名曲ですね。
特に北海道のYHでは「苫小牧発仙台行きフェリー~」というフレーズがぴったりです。
ギターのストロークコードがミーティングを盛り上げくれます。とても心に残る歌でした。
原生花園も懐かしいです。
まだあるのでしょうか?場所は素晴らしかったので連泊向けでしたね。
休館中だと言うのに3年前の旅行で原花園YHに行ってみました。
建物は私が泊まった時と違っていました。
宿泊した時、ヘルパーのお別れパーティーがあるという事で連泊を勧められ、次のYHをキャンセルしたお陰で楽しい思い出が出来ました。
ペアレントのせきとりさんとしばらく連絡もしてましたが、北海道はやはり遠くて、続きませんでした。
原生花園の事を調べていたら、せきとりさんと親しいカメラマンの方と出会い、原生花園は閉館し、ご夫婦で都内に引っ越して来られたと教えていただきました。
nori さま
コメントありがとうございます。
原生花園YHも何回も行きましたが多分私の知っている建物ではないと思いますがどうなのでしょうか?
北海道は遠い・・・、その遠さの中でも格段の遠さでしたね。
だからこそ行きたい、行って良かったと思うのですが。
また当サイトにお越しくださいね。
今日は。
40年の写真には玄関横にはライラックの木があり、談話室は平屋だった気がします。
玄関前で写真を撮ったので建物全体は分かりませんが…。
1997年のユースのハンドブックに載っていた写真と違うので建て替えたのだと思います。
nori様
コメントありがとうございます。
談話室は平屋でした。これははっきり覚えています。
入り口を入ってすぐ左側でした。
この談話室は結構広くて大晦日に泊まった時にはTVでは紅白歌合戦、その他の方はTVから離れた場所で自由気ままに過ごすという構図でした。
大晦日の年越しは私は少なくても5回は年を越していると思います。
こんばんは。
たまたま覗かせて頂いて懐かしくなりました。
そして、読み始めてビックリ!
初めて泊まられたのが76年の8/12との事。
多分、私はその前日の8/11に泊まったと思われます!
44年も昔の事なので記憶が怪しいのですが・・・
高校2年の夏、原付で埼玉から北海道一周のツーリングでした。
とても寒い夏
コーセー様
こんにちは。コメントありがとうございます。
44年も前になりますが、当時の旅行の記憶は未だに恐いくらいに1日1日はっきり覚えています。
それほど強烈な思い出だったのでしょう。
私の前日にお泊りでしたか!
当時覚えているのは、
・とにかく物凄い数の人でごった返していた。
・私が泊まった日は雨が降っていて、阿寒湖バスターミナルで野中温泉・オンネトー行きのバスを待つ間は土砂降り、でも翌日は雲が多いけどそこそこ晴れた。
ということでした。
埼玉から原付で、は凄すぎますね!
中型のバイクは多いけど原付とはすごい根性です。
1976年は私が高校1年生なのでコーセー様は一つ年上ですね。
野中温泉は無くなってしまい寂しいですがこれからも当サイトでは数多くの「あの日の思い出」を書いていきます。
他にも北海道はもちろん様々な「あの日」がありますのでまたご覧下さいね。
初めまして。
たまたま覗かせて頂いて懐かしくなりました。
読み始めてビックリ!
初めて泊まられたのが8/12との事ですが、私はその前日の8/11に宿泊しました!
44年前のニアミスですね!
あの年は寒い夏でした。
原付で北海道一周のツーリングをしていて、震えながら走ったのを覚えています。
こんにちは。還暦を迎えた元お兄さんです。
北海道を初めて旅したのが1979年、サイクリングです。
道東を廻りながら、噂の野中温泉YHには日程上泊まれませんでした。
いつの日か・・が実現したのが23年後、札幌で単身赴任となり妻と2歳の娘を呼び寄せ泊ったのです。
ユースの建物ではなく、国民宿舎の方だったのですが、元ホステラーであること告げると、ユースの建物を案内していただきました。
あの時のおじいさんが、元・世界最高齢、野中正造さんですね。90歳は過ぎていただろうに、とてもお元気でした。
神秘的なオンネトー、湯煙で視界2mの温泉、また行きたいですね。
よーじ様
こんにちは。コメントありがとうございます。
札幌からも野中温泉は遥か彼方というほど遠いですね。
時間的には東京はもちろん、福岡の方がはるかに近く、直行便で台湾まで行っても野中はまだ着かない、という距離です。
私は野中温泉には楽しい思い出しかなく、かつ青春そのものでした。
だから衰退が悲しくてなりません。でも年月の流れはそういうものですね。
野中正造さん、あの人はもっとお若い時からよくTVの取材を受けていました。NHKにも良く出ていて健脚で山中を歩き回っていました。
野中温泉の方々、そしてヘルパーをおやりになっていた方々には感謝の気持ちしかありません。
今は野中温泉に泊まることが出来て、知ることが出来て本当に良かったと思います。
初めまして、
私は1980年代前半に、1回目は周遊券、2度目は自転車で行きました。。
楽しいユース、夕食がジンギスカンだったかな?と記憶しています。
眠るオンネトー、いい歌ですね。
現在は家族で道内のとある場所に住んでおります。。
改築されて、日帰り温泉になってからは、1年に2,3回は入りに行ってましたが、…この夏訪れたら、なんと閉館してまして、、たまたまかな?と思い、
隣の別館で尋ねたところ、営業を辞めたそうです。
「おじいちゃんが亡くなったからですか?」と聞いたら、「そうです」との事でした。
200円で入れて、朝早くからやってる、硫黄の香りの強い、大好きな温泉でした。。
開けっ放しの窓から、覗かれるんじゃないかと、毎回ドキドキしながら入りましたが。残念でなりません。
湯上りには、ユースの談話室がそのまま残っていた休憩スペースで思い出に浸っていました。
とても残念です。
cha様
こんにちは。コメントありがとうございます。
今は道内にお住まいなんですね。
「眠るオンネトー」は本当に心に染み入ります。
何時聞いても口ずさんでも胸と目頭が熱くなります。
青春の旅を思い出させる名曲ですね。
今でもフルコーラス歌えますがカラオケにないのが残念です。
日帰り温泉さえも閉館してしまったのですか。
野中正造さんのご逝去は残念でなりませんが、結局あとを継ぐ人がいなかったのですね。
今後は単に廃屋となるだけなのでしょうか?
あるいは取り壊されて更地になるとか。
だとしたらあまりにも悲しいです。
私の青春の1ページを飾るたくさんの思い出が詰まったYHでしたので。
野中温泉(跡地)、オンネトーに行きたいですが札幌からはあまりにも遠い。
冬は避けたいので来春以降行こうと思います。
Kaikoshumi様
野中温泉YHの懐かしい『あるある』
有り難うございます。
私は1976年にヘルパーとして働いていました。
貴殿が来YHの時、もしかしたらミーティングをやっていたかもしれません?
当時の思いでは色々ありますが、私の中では、野中は温泉だったので他のYHと違い入湯税があったことです。
確か当時は50円だったとおもいますが
、まだ 入湯税の概念が無く 日本人はまだしも海外からのホステラーに説明するのに四苦八苦したのを覚えいます。
皆さんの投稿の様に、野中には楽しかった思い出ばっかりで青春時代の大事な宝物です。有り難うございました。
HORI様
こんにちは。コメントありがとうございます。
1976年、まさにドンピシャですね!
100%HORI様にお会いしております。
ただはっきり覚えているのは1976年夏の野中温泉はものすごい数の人でまさに「ごった返している」という状況でした。
田舎の国道からさらに側道を山の中へ数キロ入ったという辺鄙な場所でしたが「なぜこんなに人がいるのだ
!」というほどでした。
夕食時も大変な混雑だったのを覚えています。
入湯税、帰宅後に「へぇー、そんなのあるんだ」くらいの認識しか私はありませんでした。
既に45年という気が遠くなるほどの長い年月が経ってしまいましたが思い出は鮮明です。
この年初めて行った北海道、そして私の人生を変えてしまった北海道、今はその結果札幌の住民になりました。
これからも様々な「あの日」を当サイトでお伝えしていきます。
どうぞよろしくお願い致します。
Kaikoshumi様
コメント有り難うございます。
私は、75年にホステラーとして2回 何日か連泊して、76年に3月から10月までヘルパーしていました。
夏の最盛期には500名からのホステラーが来ていて、ミーティングは建物前の駐車場でやったことも、北海道の山奥で500人から若者が薄暗い中、歌ったり、踊ったり、知らない人が見たら 何かの新興宗教の団体かと思ったのではないかと、今では思います。
300名位までは、食堂の二階(名称 タコ部屋 大広間)でやっていました。
Kaikoshumi様のお陰で いま、当時の事が走馬灯の様に、思い出されます。
有り難うございます。
HORI様
お返事ありがとうございます。こちらこそHORI様の思い出の一助になれてよかったと思います。
タコ部屋・・・、そう言っていましたね。覚えています。
私はこの1976年8月12日に初めて野中に泊まった時はYHの建物だけど4人くらいの和室でした。
入口の微妙なところに柱があって頭をぶつけて痛かった思い出があります。
おっしゃるようにあの頃の夏のホステラーの人数は尋常じゃなかったですね。
ピークで500人ですか! 今じゃ考えられないですね。
また当サイトにお越しくださいね。
Kaikoshumi様
あ! 思い出しました❗
私がホステラーとして、1975年に初めて泊まった時の風呂は、打ちぱなしのコンクリートに、あちらこちら剥げ落ちたタイル張りでした。
でも、それはそれで如何にも山奥の湯治場的で、いい雰囲気をかもしだしていました。
貴殿が初めて泊まった時の部屋が、食堂側の二階でしたら、その部屋のとなりが私が寝泊まりしていた部屋でした。
一応 私は通年のヘルパーでしたので、個室を与えられていました。
短期のヘルパーは大部屋、多いときはヘルパーだけでも十人以上でした。
お陰で当時のアルバムを開いたりして、色々 思い出します。
有り難うございます。
HORI様
コメントありがとうございます。
私が始めて泊まった部屋は6畳くらいの和室ですが、はっきり覚えているのは1階だったのです。
YHの建物です。ただどの辺の場所かは覚えておりません。
HORI様に出来れば、のお願いがございます。
昔のYHのお写真(野中以外もOKです)をお持ちでしたらご提供頂けないでしょうか?
出来れば本サイトでご紹介したいのです。その際はHORI様のご要望によりすべての方(または一部の方)のお顔にはモザイクを入れます。
数十年とか経過して人物特定ができなければそのまま載せた方が若い日のお顔を見れて喜んで頂けるご訪問者様もいらっしゃいますが。
もしご協力いただけるのであれば本サイトのタイトル直下の「お問合せ」からご連絡下さい。
この場所からご連絡頂ければプライベートは完全に守られます。
出来ればのお話しです。
kaikoshumi様
一階の和室でしたら 浴場に行く廊下
の処に有った部屋だったとおもいます。
たしか 部屋の名前は当時の列車名からとり、ゆうずる 十和田 からまつ おおぞら 日本海などの名前をつけ、名前のしたに部屋No(号).を入れていました。
部屋の名前には、他にも、私の部屋 あなたの部屋 僕の部屋とか1年一組(A組だったかなぁ?)2年2組?なんかがあり、ホステラーを惑わしていました。
例えば、女性ホステラーに『 では今日のお部屋は私の部屋になりす。』と言うと『えー困ります~』となる訳ですが『いいえ 困っても今日の○○さんのお部屋は私の部屋です。』といじるわけです。
やっぱり! 今では考えられない、良い時代でした。
また なにか思い出しましたら投稿します。
有り難うございます。
HORI様
コメントありがとうございます。
浴場に行く廊下→思い出しました。確かにその場所でした!記憶がよみがえりました。ありがとうございます。
でも泊まった部屋の名前は憶えていないのですが、「私の部屋 あなたの部屋 僕の部屋」とかの名前は憶えています。
ところで過日お問合せのメールで頂いた件にお返事を出しました。
「写真お送り頂ければ・・・、フィルムだけど」という内容です。頂いたのは2月4日、そちら様の携帯メールのようです。
当方からはその日のうちに返信をしております。
恐らくですが、そちら様は携帯メール、こちらからの返信はPCからのメール(yahooメール)ですので
もしかしてそちら様で「PCメールは受信拒否」になっているのでは?と思うのです。
恐れ入りますがご確認され再度ご連絡頂ければ幸いです。
当方のメールを受信するには一時的でもよいので「PCメールを受信」または「yahooメールを受信」に設定を変えて頂く必要がございます。
よろしくお願いいたします。
Kaikoshumi様
HORIです。
76年の野中温泉ヘルパー『やってた!やってた!』です。
野中で三月から始めたヘルパー業務ですが、最初の頃はホステラーは殆どきていませんでしたが、近所 といっても10㎞以上は離れている農家の人達が一週間から10日間位の予定で湯湯治していました。仕事は湯湯治客のお世話とシーズンに備えての館内清掃
5月のGW過ぎになるとユースの食材探しで、フキやこごみの山菜採りに出掛けたり、布団や毛布の天日干しをする毎日、時にはペアレントの知り合いの農家に行ってビート(てんさい 砂糖大根)の植え付けの手伝いなどが仕事
5月の中頃からは高校生の宿泊研修があり賑やかに過ごしていました。
特に足寄高校は賑やかだった(うるさかった(思い出し笑) 詳しいことはここでは書けません)
7月1日は雌阿寒岳の山開き、前日から一般客でごった返したのを覚えています。たしか、当日は大雨で登山は中止?
ヘルパーとしての一日は、だいたい朝5時頃起き朝食の準備 確かに8時頃発の阿寒湖行きバスの見送りが一日のはじまりでした。(バスの乗務員さんはバスと共に野中に泊まってました)
自分たちの食事はどのタイミングで食べたか記憶がありません。
その後は8時間コース出発の見送り
と連泊者との館内清掃、私は夕食の準備で一人鯖の切り身(三枚下ろし)作りと週に2回程の風呂掃除が主でした。
昼休憩のあとは四時頃から夕食準備、
夕食後は八時からミーティング
こんな一日でした。
日によっては夜中に御来光登山の見送り(たまには付き添い)
ちょっと長くなりましたので、この辺にします。
有り難うございます。
HORI様
こんにちは、コメントありがとうございます。
ヘルパーって本当に忙しいんですよね。特に人気のユースで夏の繁忙期だと殆ど睡眠時間が取れないと思います。
わずか数人で時には100人以上分の食事を早朝から作ったりなど無報酬またはそれに限りなく近い報酬でやるのですから頭が上がりません。
ところで野中温泉を朝出発するバスって、乗務員がバスごと野中に泊まっていたのですか?
初めて知りました。ビックリです。
野中温泉から阿寒湖バスターミナルまでは確か40分くらいでしたから当然朝便も阿寒湖からやってくる(回送扱いであっても)ものだと思っていました。
1976年夏、私の人生を変えた初めての北海道旅行。
この17泊18日の旅がなければ私は縁が無かった北海道、札幌に移り住むことは無かったのです。
恐いくらいに鮮明に覚えています。
もし時間があれば当時のルートを辿る旅をしたいです。
ユースでなくても。
Kaikoshumi様
私の記憶ですと 阿寒湖からの最終便
がオンネトーまで行き 回送で野中に来て、バスと乗務員は一緒に泊まってました。
翌日、オンネトーまでは回送で、野中を8時頃のバスになっていました。
ただ 記憶の中では毎日ではなかったような気がします。
乗務員さんは運転手と車掌さん(女性)の二人。
また 当時のヘルパーは空き時間にオンネトーに行きたい時、内緒で無賃でのせてもらったり 帰りに歩いていると普通に、バスが止まって乗せてもらったりしていました。
いい時代でした。
付け加えると、夏の最終便は、ほぼ毎日満席状態、その殆どか野中温泉宿泊のホステラー、いっぺん40人前後のホステラーが入るわけですから フロントは大変だったのを覚えています。
HORI様
こんにちは。お返事ありがとうございます。
そういうことでしたか。やはり「良い時代」の産物ですね。
民間企業ですから今では考えられませんね。絶対に許されず「何時になろうが営業所帰って来い! 暗いうちに営業所出て行ってこい!」とかになるかも?
(でもここまで言うとパワハラになる?)
私が路線バスに車掌さんが乗っていたのを最後に見たのは記憶では1980年8月に根室駅から納沙布岬行きのバスでした。
車掌さんといっても女子高生のバイトで、ショートカットの真面目そうな子で上下赤のトレーナーを着ていたのが印象的でした。(彼女も今は50代後半か…)
そして驚愕だったのが斜めかけのショルダーベルトで大昔からあるバスや電車の車掌さんが使っていた革製のカバンを提げていたのです!
もう41年も前の出来事ですが、当時でさえ私はタイムスリップしたような感覚でした。
東京で生まれ育ち当時も横浜に住んでいましたからまず路線バスに車掌さんが乗っていること自体驚いたのです。
それまでもテレビで見ただけしかありませんでした。
懐かしい、その言葉以外に思い付かないです。
私も、彼女と、1981年頃の冬に、阿寒湖から北見相生方面に行くバスを途中で降りて、ヒッチハイクでオンネトー入口まで行き、そこから野中温泉まで、4Km位歩きましたよ!
野中温泉は、数回しか行っていませんが、夏以外が多いので、ミーティングの記憶がないですけど。
山びと源様
コメントありがとうございます。
野中温泉YHは大好きだったのに無くなってしまいました。
ファンが多かったYHですが時の流れには逆らえませんね。
「阿寒湖~北見相生接続」→これは意図的にバスが列車に接続しないように
していたと今でも思います。全く列車を無視という感じでした。
美幌からバスに乗せた方が儲かりますからね。
1977牟2月27日から社会人になる前の学生最後の長旅で北海道ワイド周遊券を使って一周しました 今は廃線になった所や閉館したYHが多く想い出の中の夢の様な世界でした 美幌駅前のボロ旅館に望洋台YHで知り合った同じ22歳の友と宿泊し JRバスにて屈斜路湖から摩周湖を巡り阿寒湖からはバスが無く やっとヒッチで大型トラックが止まってくれ 登山口から夕暮れの雪道を1時間程歩き やっと野中温泉YHに到着 広い木造風呂 翌朝のオンネトーから望む雌阿寒岳の朝日 途中YHで会った女三人旅とも再会 楽しい星空の下の会話を楽しみました その後 社会人となり資金を貯め 念願の世界一周もしましたが 野中温泉はその中でも想い出探い場所です 定年退職後 北海道7日間の鈍行独り旅をしましたが 昔の素朴な旅とは違うものを改めて感じました コロナで延期してる長期北海道車中泊旅をそろそろと!※野中温泉に一緒に泊まった大阪の友は今も今でも繋がってます
SUNDOWNER とは 夕日が沈む所が今日の我が家 と云う意味のオーストラリアの羊飼い(遊牧民)を指す言葉です
SUNDOWNER BILL様
こんにちは。コメントありがとうございます。
美幌は駅近くにYHはありませんでしたね。かなり離れた場所に美幌YHがあり、そこは数度泊まりましたが今は無くなってしまいました。
道東のあの辺の旅は私も懐かしいの一言です。
野中温泉も数えきれないほど泊りましたが、途中から日帰り温泉だけになり結局YHは存続できずになってしまいました。
今も夢の中、という言葉がぴったりです。青春の思い出でした。
また弊サイトにお越しくださいね。