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塩狩温泉ユースホステル(北海道)

塩狩温泉は憩いの場所

北海道・旭川市からほぼ真北へ30kmほどの場所に「塩狩温泉ユースホステル」がありました。

私も数え切れない程泊まりましたが残念なことに2006年ごろに閉館となってしまいました。

ここは塩狩温泉観光ホテルも併設されていました。

併設と言ってもホテルがメインでユースがオマケという感じでしたけどね。

場所は以下となります。

塩狩温泉ユースホステルのあった場所(Google map)

ここは塩狩峠のほぼ頂上(正確には頂上よりもやや北側に下った場所になる)でJR宗谷本線の塩狩駅から徒歩5分、またはユースホステル(ホテル)目の前の国道40号線も利用可能という交通が大変に便利なところでした。

旭川からバスに乗っても約1時間強で塩狩バス停で降りて目の前です。

三浦綾子さんの小説「塩狩峠」で有名な場所です。

昔、国鉄職員が連結器が外れて下り坂を暴走した客車を自分の体で止めて多くの人を救ったというお話です。

直ぐ近くには「三浦綾子記念館」もあります。

以下にホテルとユースホステルの建物の写真を載せます。

(クリックで拡大します)

Shiokari-onsen_YH

↑閉館後のユースホステル。(引用元: Wikipedia )

Shiokari-Hotel

↑ホテル全景

(引用元:北海道温泉 http://popup10.tok2.com/home2/kawauso99/hokkaido_onsen.html )

 

峠の静かな温泉ですが旭川市からも比較的近く、塩狩駅のほぼ目の前ですので「ちょっと途中下車して・・」とか、車でも峠を登り切って「休んで行こう」と寄るには絶好の場所だったと思います。

塩狩温泉ユースホステルはなぜかクセになる場所・・・

塩狩温泉ユースホステルに私が初めて泊まったのは39年程前ですが1994年ごろまで何度も通いました。

ここが好きだったのはユースホステルらしさはあまりないのですが、「ホテルの大浴場に入れる」「交通が大変に便利」「旭川市に近いが故に夏の最盛期にも比較的泊まれることが多い」「のんびり時間を忘れて過ごすのに最適」などの理由でした。

私が通い始めたころでも決して新しさを感じる建物ではありません。

周辺も峠と山だけで何もないんですが何泊でもしたくなる魅力がありました(私にとってですが)。

 

数泊して暇に耐えられなくなると1日に何度も温泉に浸かってから昼寝をしたり、それも飽きたら列車で1時間の旭川市でブラブラして来るという都会を楽しむことも出来たんですね。

当然何度も泊まりに行って長いこといればヘルパー(ユースホステルのスタッフ)達とも仲良くなり、東京でヘルパーたちと集まって飲んで騒いだことも何度もありました。

【塩狩 in 新宿】とか言って新宿でバカ騒ぎしました。

 

またユースホステルの夕食は基本的に1年中ジンギスカンでした。

連泊して「もう飽きた」という人は事前に言えば違うメニューも用意してくれます。

朝は夏などはパンが多かったですが、閑散期は普通の和定食でした。

また私は1980年代半ば~1993年ごろは毎年塩狩温泉ユースホステルで年越しをしていました。

この記事を読んでいる方で、「え?俺もその頃よく年越ししていたよ!」という人もいらっしゃるかもしれませんね。

 

ユースホステルとホテルの建物の1階部分の内部を記憶の範囲で書いてみました。

以下のような構造です。(クリックで拡大します)

なお一部のサイトにはユースホステルの定員が18名とか少なく書いてありますが、実際はそんなに少なくありません。

正確な定員は忘れましたがベッドを全て埋めて、大広間およびホテル側の予備室を使うとユースホステルだけで50人以上は楽勝で泊まれましたし実際に夏の最盛期はそれ以上泊まっていました。

塩狩ホテル見取り図




ホテルもユースホステルも時代の流れには勝てず・・・

塩狩に限らず全国的にユースホステルの会員数は激減し、ホテルも時代の変化・要望について行けず当初は大きな利点であった「旭川市から近い」という事も逆に仇になったんだと思います。

1980年代後半頃には経営者も代わって再建を試みましたが残念なことに2006年に閉館となってしまいました。

塩狩温泉は交通も大変に便利、峠の頂上の温泉という利点を生かしてホテル・ユースホステル・ドライブインを経営してそれは賑わった時代もあったんです。

地元や近隣の方は日帰り温泉も来ましたし、長期の湯治客もたくさん来ていました。

また温泉や宿泊を利用しなくてもドライブインで食事や休憩といった利用客もかなり多かったのです。

ドライブインは飲料、おにぎり、うどんなどの自販機を何台も置いて24時間休憩出来るようにしていました。

旭川市から稚内市を結ぶ大動脈である国道40号線沿い、しかも大型車両も入れました。

北海道は札幌市も含めて自衛隊駐屯地が非常に多いのですが、近隣でも30km南に旭川の駐屯地、塩狩から北に40kmの名寄市にも大きな駐屯地があります。

その関係で自衛隊車両がこのドライブインに寄ることも多かったようです。

どうしても大型車両ばかりなのである程度広い駐車場でないと入れませんからね。

 

以下の写真はユースホステル時代の知合いが2014年11月に写した写真を送ってくれたものです。閉館後8年経過しています。

(クリックで拡大します)

↓右がユース、左が温泉の休憩所

201411_Shika_fromT05

↓左端が大浴場     ↓国道側にあった看板

201411_Shika_fromT03 201411_Shika_fromT01

↓国道から見える場所にありました。
(最後を引き継いだ経営者が書いたもの(と思う))

201411_Shika_fromT02

↓大浴場正面の除雪車の車庫

201411_Shika_fromT04

最新の塩狩温泉跡

以下は私が本年(2016年8月11日)に撮影したものです。

建物は跡形も無くなってしまいましたが草が生え放題状態です。

(クリックで拡大します)

↓駅からホテル正面に行く道

20160811 塩狩_10_YHに行く道_R

↓ホテル正面にあった池  ↓左奥がホテル玄関

20160811 塩狩_12_池が見える_R 20160811 塩狩_11_左奥ホテル玄関_R

↓国道から見て左右方向にユースの建物があった。

20160811 塩狩_19_左右方向にYH_R

↓中央やや左にユース玄関

20160811 塩狩_18_YH跡_R

↓正面奥がユース      ↓ドライブイン跡

20160811 塩狩_16_正面奥がYH玄関_R 20160811 塩狩_15_中央奥がドライブイン_R

↓奥が除雪車車庫、右端大浴場

20160811 塩狩_17_奥が除雪車車庫_R

↓国道沿い、塩狩温泉目の前にあった岡商店。
当初は個人商店で途中からコンビニ、でも今は閉店。

20160811 塩狩_22_岡商店1_R




塩狩温泉ユースホステルを引き継いだ塩狩ヒュッテ

旧塩狩温泉の経営者とは無関係でしょうが、ほぼ線路脇に塩狩ヒュッテが出来ました。

日本ユースホステル協会所属です。

こちらがサイトとなります。

私はまだ泊まったことがありませんが小ぎれいな今風の建物は若い人に受けると思います。

駅から旧塩狩温泉に向かう途中、塩狩峠の碑のほぼ前にありますのですぐにわかりますし交通も便利です。

以下も私が写したもので撮影日は塩狩温泉跡地と同じ本年8月11日です。

(クリックで拡大します)

20160811 塩狩_03_R 20160811 塩狩_08_R

20160811 塩狩_09_R

【追記】2019年10月20日現在の塩狩YH跡地

久しぶりに訪れて写真を撮ってきましたので是非ご覧下さい。

2019年10月20日の塩狩YH跡地

最後に・・・

たくさんの思い出と友人を与えてくれた塩狩温泉ユースホステルには今でも感謝しています。

東京での集まりも本当に楽しかったです。

冬は雪が大変に深く気温も札幌よりもはるかに低く厳しいですが、雪を見ながらの温泉は最高でしたね。

またドライブイン駐車場端でヘルパーたちと花火をしていたら、休憩で立ち寄った自衛官も参加して楽しんだこともありました。

(今じゃ考えられませんが)

時の流れだから仕方ありません。

でも塩狩峠と塩狩駅は昔のまま変わっていません。

以下に今年撮影の塩狩駅の写真も載せておきますので、ぜひこの味わい深い峠の駅を訪れてほしいと思います。

(クリックで拡大します)

20160811 Shiokari_04 20160811 Shiokari_03

20160811 Shiokari_02 20160811 Shiokari_01

20160811 Shiokari_05

 

【2020年6月23日追記】

以下に懐かしい写真の記事を載せました。ぜひご覧下さい。

塩狩温泉ユースホステル発足時の写真(1969~1974年)

【2020年7月22日追記】

2020年7月5日現在の塩狩跡地の様子です。また跡地の動画もご案内しております。

塩狩温泉ユースホステル跡(2020年7月5日現在)

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93 Responses to “塩狩温泉ユースホステル(北海道)”

  1. お魚ランナー より:

    私も昭和50年代前半からよく泊まっていました。
    連泊して時間があれば比布神社にお参りもしました。
    ジンギスカンも懐かしいですね。そして最後に泊まったのが、昭和62年8月12日、そう日航機123便が墜落したその日で、宿泊者がテレビの前で固唾をのんでいたことを今でも覚えています。また機会があれば訪れたいと思います。興味深い写真、お話、有難うございました。

    • kaikoshumi より:

      お魚ランナー さま

      こんにちは。コメントありがとうございます。
      もしかしたら私とお会いしている可能性が極めて高いのでは?と思います。
      比布神社のお守りは今もマイカーに付いています。
      比布駅も昨春素晴らしくきれいになりました。

      日航機墜落の8月12日は実は私は(今は無き)札幌ライオンズYHに泊まっていました。
      夏のライオンズYHは人が多すぎてTV見たりは出来ませんが、翌朝「飛行機が落ちたらしい」とホステラーの間で大騒ぎになっており、私は当時まだ地上ホームだった札幌駅で列車の列に並んでいる時に前の人が読む新聞で詳細を知ったのです。(のぞき見です)

      本当に衝撃的でしたね。
      そして私は札幌駅から塩狩に向かったのです。
      つまりお魚ランナー 様が塩狩に泊まられた翌日の13日に泊まっています。

      ライオンズほどではありませんが、当時の夏の塩狩も大変に人が多かったですね。

      なおJR北海道の考えによると塩狩駅は廃止の方向だそうです。時期は未定のようですがいつ行っても絶望的なくらい人が少ないです。

      駅周辺には「一目千本桜」という桜の名所があり春には多くの人が訪れますが皆車で来ますね。
      でも味わい深い素敵な駅ですが。

      今回のサイトへのご訪問ありがとうございました。
      またお出で下さいませ。

  2. 通行人 より:

    こちらにもお邪魔します。塩狩駅はユースホステル宿泊者の署名により、朝の快速を停めてもらった経緯があります。非常に利用者が少ないですが、新しいユースホステルの利用者のためにも、駅を存続してもらいたいと思います。ただ、夕方の名寄行きの列車に乗っても、20年位前は大変混雑していたのに「、昨年訪れたときは、列車自体の乗客がたいへん少ないので、宗谷本線自体の存続に危機感を覚えます

    • kaikoshumi より:

      通行人さま

      コメントありがとうございます。
      「宿泊者の署名により・・・」は知りませんでした。
      いや、もしかしたら単に忘れているだけかもしれません。

      でも塩狩の後期~閉鎖の期間は快速は停まらずだったと思います。(あやふやですが)

      宗谷本線で乗客が多いのは旭川~永山までと、特急での名寄までだけです。

      永山は駅前に高層マンションが建ち都会的な街になっていますので列車がなくなると大変なことになります。
      (特に冬は)

      名寄~稚内は絶望的でJR北も「自社単独では無理」と言い出しており、稚内や名寄駅のKIOSKさえも廃止されています。

      自治体が線路を所有する上下分離式でないと名寄以北は厳しいと思います。
      でもどんなローカル線でも北海道は冬には鉄道が必要です。

      普段マイカー派の人も冬になると列車に乗ります。
      国や道がもっと真剣に考えて存続をして頂きたいです。

      この度のご訪問ありがとうございました。
      またお出で下さいませ。

      • 通行人 より:

        言葉足らずでごめんなさい。
        停めてもらった快速とは、旭川方面の朝の1本のみです。
        ほかは、おっしゃる通り通過していました。
        この旭川方面の上り快速が1本停まることにより、ゆっくりと朝食をとることができました。
        それ以前は、和寒返しと称して、和寒まで一駅下り、快速を捕まえ旭川に向かっていました。
        周遊券を活用した乗り方でしたが、ダイヤが乱れると、折り返せない羽目になりました。
        北海道の鉄道は分割民営化でいずれこうなることは、目に見えていました。
        国策で、炭鉱はなくなり、農業も立ち行かなくなり、大量の国鉄職員の人員削減があり、そのため、その人を含め家族を相手にしていた商店、自営業も立ち行かなくなり、負のスパイラルに陥っています。
        北海道だけでなく国全体の問題として考えなKればならないと思います。

        • kaikoshumi より:

          通行人さま

          わざわざご丁寧にありがとうございます。
          おっしゃる通り朝1本の旭川方面がとまるだけで利便性がまるで違いましたね。

          旭川まで出れば、道東、札幌方面とどこでも行けるので便利でしたから。
          確か塩狩停車の朝の列車を逃すとお昼近くまで無かったと思います。

          和寒返し、よく使いました。
          便利でしたが冬の時期はちょっと危うい感じでした。

          JR北海道の事はおっしゃる通りです。
          マスコミは今更になって「JR北海道が危ない」と面白おかしく書いていますが国鉄分割時からわかっていた事なのに、記事を増やすために書いているにすぎません。

          でもちょっとおかしいのでは?と思うのは国も道も口は出すけれど「あとは勝手にやれ!」としていることです。
          「道」ですらこの態度です。

          今でも日本国有鉄道と変わらない状況なのに。

          でも先週行われたJR北海道の今後に関する有識者会議で「名寄以北は残すべき路線」と中間報告が出されました。

          これは稚内は重要な都市であることと、今後ロシアとの貿易を増やすことを考えると廃止は望ましくないとのことです。
          でも国が管理しないと厳しいので国には腰を上げてもらいたいです。

          再訪ありがとうございました。
          またお越しくださいませ。

          • kaikoshumi より:

            【追記でございます】

            マスコミで口の悪い(?)所はJR北海道の努力不足が赤字の元、などと非常に無責任なことを書いていますが、私的の感想では1割は当たっていると思います。

            人口が希薄等は公共交通機関としてはあまり論ずる話ではないのですが、残りの9割は道と国の責任であると思います。

            当方現在は北海道在住ですが、テレビコマーシャルでJR北海道の物をほとんど見ないのです。

            テレビで鉄道会社の宣伝と言えば「JR東日本」、「東武鉄道(スカイツリーや東武ワールドスクウェア)」、「東京モノレール」、「(忘れた頃に)京浜急行」などです。

            数年前はJR西日本、九州のCMもありました。

            特にJR東日本はよく見ます。
            北海道新幹線開業時もJR北海道のコマーシャルはちょっと記憶がありません。

            ガンガンCMをやっていたのは「北海道(自治体)」とJR東日本でした。

            JR北海道がコマーシャルをやるのは冬に入る最初の頃、つまり12月上旬ころに冬の踏切の注意喚起の広告をやるだけです。

            お金がかかるのは分かりますが、臨時列車やイベント列車などのCMを少しでもやったらどうなの?とか思います。

            北海道にいながら地元の鉄道会社のCMがなく、新幹線もJR東日本ばかりというのは違和感があります。

            ましてや東武鉄道のCMが最近増えつつありますし。

            やはり線路施設だけでも「国有」、「国営」にすべきではと思うのです。

  3. 左馬之助 より:

    こんにちは。はじめまして。
    私も85年位からよく塩狩に泊まりました。新宿の会合にも数回?参加してるので、もしかするとお会いしてるかも、ですね。

    塩狩懐かしいですねー。私も東京生まれの東京育ちですが、塩狩のせいで道民になったといっても過言ではありません。風の噂で建物取り壊しは聞いてましたが、完全に更地になってしまったんですね。

    野中温泉や男子校の記事など楽しく読ませていただきました。野中も懐かしいし、男子校も懐かしい(笑)

    • kaikoshumi より:

      左馬之助さま
      こんにちは。コメントありがとうございます。
      私が一番最初に泊まったのは1977年8月ですが、宿泊頻度が高くなったのは1984年からです。

      おそらく間違いなくお会いしているはずです。
      特に私は当時の塩狩の核となるヘルパーとはとても仲がよく新宿の会合はもちろん家に遊びに行ったりキャンプに行ったりもしました。

      当時、道外出身のヘルパー仲間では「道職」を受ける人が多くて数人合格して北海道で暮らした人がいます。
      (道職とは北海道職員のことです。つまり地方公務員)

      左馬之助さまも東京生まれ育ちで道民になったのですか?
      となると私と同じパターンですね。
      私の妻は北海道の人なので、まあそれが拍車をかけているのでもありますが。

      もしですが、宜しければサイト上部の「お問合せ」からご連絡いただければ本サイト上には一切コメントが残らずにご連絡いただくことも出来ますのでご利用頂ければと思います。

      またお出で下さい。
      ご訪問ありがとうございました。

  4. ごじゃP より:

    80年春にヘルパーやってました。
    その後、81年~85年くらいまでミーティング「内地大会」と称して東京で集まったりしていましたが。。。
    85年頃だと、こまわりとかイコエちゃんとかきむちんとかの頃かな?
    ひょんなことから貴サイトを見つけて、思わず引っかかって書き込んでしまいました。

    • kaikoshumi より:

      ごじゃPさま

      こんにちは。ご訪問とコメントありがとうございます。
      1980年も泊まっていますが春は行っていないです。
      この年は夏と年末に行っています。

      でも何らかの形でお会いしているかもしれません。
      コメントでお書き頂いたお名前の方は全員知っております。
      イコエではなくてイクエですね。

      もしよろしければ本記事(サイト)の上部にあります「お問合せ」からご連絡頂ければ個人的なお名前を出したお話しも出来ます。

      このコメント欄だと承認すると全ての方に見えてしまいますが、お問合せ欄からだとプライベートは完全に守られます。

      実は本サイトでこのような形でお問合せ欄からご連絡を頂いて、「え?あの時の●○さん!」と判明したこともございます。

      宜しければお問合せ欄よりご連絡下さいませ。

      この度は当サイトへのご訪問ありがとうございました。
      またお出で下さいませ。

  5. 旅人 より:

    ふと思い立って塩狩峠をググってこちらにたどりつきました。SLを撮りに行って、塩狩峠には2.3回お世話になりました。1973〜74年頃ですかね。3月の時でも大勢が泊まっていました。売店に可愛い子がいて、皆夢中になってました。ストリートビューだと2014年のまだ建物が健在の様子が見れますね。昨年6月北海道を回りましたが、川湯駅の最終便は網走行きが1人、釧路行きが2人の乗車でした。北海道の鉄道は先がみえないですね。

    • kaikoshumi より:

      旅人様
      こんにちは。
      コメントありがとうございます。
      私よりもYHの旅は先輩ですね!

      旅人様がYHを利用された時代はYH、そして北海道旅行の全盛期だったかもしれませんね。

      「売店の可愛い子」はどんな可愛い子だったのか気になりますが、今や還暦を過ぎていらっしゃるんでしょうね。

      釧網本線は私も大好きな路線なのに、維持困難とは悲しい限りです。
      確かに道内のローカル線は絶望に近いところも多いです。

      札幌圏は大変に利用客が多く、しかも年々増えているという地方都市では珍しい状況なのに残念です。
      (札幌市は道内でも3つしかない人口増加地域なのです)

      本サイトには他にも北海道に関連した記事、誰でも経験する幼少期の記事などありますので、ぜひまたお越し下さいませ。
      この度のご訪問ありがとうございました。

  6. ライフル射手 より:

    塩狩温泉の経営者だった[入江公郎]氏が昨日朝、難病の為入院していた東京の病院で亡くなりました。
    彼は元ライフル射撃日本代表選手、オリンピック候補選手として海外遠征し数多くの優秀な成績を収めた男です。
    近年は2020年東京パラリンピック出場を目指し練習に励んで来ましたが残念でです。
    私も入江氏と同じ選手で45年間の親友でした。
    ご冥福をお祈りいたします。

    • kaikoshumi より:

      ライフル射手さま
      こんにちは。コメントありがとうございます。
      入江さんがお亡くなりになったのですか?

      びっくりです!
      私は入江さんには個人的にも大変よくして頂いたので驚き以外の言葉がありません。

      既に20年以上入江さんとはお会いしていませんが、上品な関西弁でいつもニコニコされていてとても楽しい方でした。
      ましてや難病だったなんて・・・

      ライフルをおやりになっていたことは知っていましたが、そのほどの腕前とは知りませんでした。

      とにかくいつもニコニコした優しいお顔しか思い出せません。
      ご冥福をお祈り申し上げます。

      そして貴重な情報ありがとうございました。

      • ライフル射手 より:

        入江さんのお別れ会は
        12月20日、11:00~12:00。奈川県川崎市多摩区枡形1丁目13-1 セレモニア多摩会堂。電話番号044-935-1001。その後、近くの火葬場で荼毘に付すそうです。喪主は入江ジョビリンさん、
        です。

    • 悠楽士 より:

      ライフル射手様
      入江君が亡くなったのは本当でしょうか。大学の同級生で一緒に北海道を旅行し、塩狩温泉ユースホテルに泊まりました。その後2女と結婚し社長を引き継ぎました。
      2015年6月27日登戸近くの家に見舞いに行きました。伝い歩きができる程度でした。2016年11月27日「元気ですがまだ入院中です」とのメールを最後に連絡がとざえました。家族との連絡手段をお持ちでしょうか。

  7. ライフル射手 より:

    私のフェイスブックに若き日の入江さんの写真があります。撮影場所は 第七回テヘラン・アジア大会の射撃場です。https://www.facebook.com/takashi.tsuji.1291

    • kaikoshumi より:

      ライフル射手さま
      コメントと情報ありがとうございます。
      お写真は私の知っている入江さんと変わっていないです。

      凄い人なんですね。
      お別れ会は行けませんが、その時には手を合わせたいと思います。

      ありがとうございました。

  8. ごじゃP より:

    久しぶりの訪問で、コメントを拝読して驚きました。
    公郎さんお亡くなりになったんですね。
    しかも難病を抱えておられた。。。
    すっかりご無沙汰のうちにいろいろ悲しいことがありますね。
    ご冥福をお祈りしたいと思います。

    皆様、どうぞ健康で良いお年をお迎えください。
    そして懐古趣味な思い出の数々、時折共感させてください。

    • kaikoshumi より:

      ごじゃPさま

      こんにちは。ご訪問ありがとうございました。
      そうなんです。元社長が逝去されたのです。

      私も個人的にも散々お世話になった方なので驚きを隠せません。
      まだ年齢的には全然お若いと思います。
      ただただご冥福をお祈りするだけです。

  9. 1959年生まれ より:

    寂しい限りですね。中学生の頃にSLを撮影しに、東京から一度だけ泊まりました。塩狩峠の話を聞いたり。混浴温泉にドキドキした記憶が。

    • kaikoshumi より:

      1959年生まれ様

      コメントありがとうございます。
      泊まられたのですね。とってもよいYHでした。
      でも塩狩は混浴ではなかったのですが・・・。

  10. Eric plancton より:

    塩狩温泉YHどうなってるのかな?と思いググってこのブログに来ました!
    1980年から5年間夏だけヘルパーぽいことしてました。
    すごい懐かしかったです。

    • kaikoshumi より:

      Eric planctonさま
      こんにちは。コメントありがとうございます。
      時期的にお会いしているかもしれませんね。
      1984~85年頃は古参の「ひやまさん」とかいましたがご存知でしょうか?

      みんなどうしているのかな・・・。

  11. Eric plancton より:

    前述にヘルパーぽい事とは夏休みに一週間ほどやっていました。5年間続けていましたが、皆さんの本名知りません(^_^;)
    きむちんとは今も会ってます。

    • kaikoshumi より:

      Eric planctonさま

      お返事ありがとうございます。
      「きむちん」よく知っていますよ。
      散々飲んで遊びました。
      東京でも会いました。最近は疎遠ですが風の噂は良く聞きます。

      塩狩の仲間とは例えば「塩狩in新宿」とかで飲みましたね。

      20人くらい集まって(当然ここのYHに泊まったことのない変な連中も参加する)大騒ぎで大変でした。
      懐かしい思い出です。

      他にあの当時いたのは、「肉丸」、「いくえちゃん」、「こまわり」、「Z2」、「ぽっきりくん」とかでしたか。

      一部の人とは連絡を取ることもありますが、殆どは皆さんと疎遠となってしまいました。

      懐かしいです。

      • Eric plancton より:

        こまわりはたまに噂に聞きますが、あとの方は今どうしているんでしょうね?
        バイクでツーリングとかよく行きました。
        他界した父の部屋から塩狩温泉YHの前で皆と撮った写真が出て来たのには驚きました。
        懐かしいなぁ!

        • kaikoshumi より:

          Eric planctonさま
          再訪とコメントありがとうございます。
          「こまわり」はお互いの家に泊まりに行ったことがあります。
          2年位前に連絡を取りました。

          他の方は一部たまに連絡を取り合う人もいます。
          でもなかなか会うことができません。

          塩狩はある意味青春の1ページでした。

  12. kaikoshumi より:

    【管理人・kaikoshumi】よりご連絡

    本年(2018年)8月3日10:41に本サイトのお問い合わせからご連絡を頂いた【ひーやん】様。

    この度はご連絡ありがとうございます。
    お返事を差し上げたのですが、サーバーエラーで何度も返って来てしまいます。

    頂いたご連絡先がキャリアメールですので、恐らくPCメールの着信拒否をされていると思います。

    恐れ入りますが、PCメール着信拒否を(一時的でも)解除いただくか、ドメインの「yahoo.co.jp」が受信できるように設定して再度お問い合わせからご連絡ください。

    よろしくお願いいたします。

  13. 遊楽子 より:

    kaikosyumi様
    私は1973年8月入江君と大学の同期計3人で北海道を旅行しました。彼はその後2女と結婚し社長になりました。2015年6月登戸の自宅へお見舞いに行った時は伝い歩きができる程度でした。ジョビリンさんにも逢えました。2016年11月の「元気ですがまだ入院しています」との便りを最後に音信不通になりました。今日サイトを拝見していて初めて2017年12月に亡くなられた事を知りました。有難うございました。

    • kaikoshumi より:

      遊楽子さま
      こんにちは。コメントありがとうございます。
      私も入江さんの逝去は本記事への書き込みで初めて知ったのです。
      驚きを隠せませんでした。

      物静かではあったけど、凄く元気で精力的な方だったので難病なんて信じられませんでした。

      まだ全然お若いですので無念ではあったと思いますが、多くの人と出会い愛されて幸せだったと思います。

      • 悠楽士 より:

        そうですね。彼の人生は正に「禍福は糾える縄の如し」そのものでした。旅行で知り合った当時小学5年生の晶子さんと交際を始め、短大卒業後二人は平安神宮で結婚しました。私は司会役でした。会社を辞め、社長に就任しましたが、如何せん田舎の温泉宿、客足が遠のき東京に出稼ぎに
        出ました。それが歯車の食い違いの始まりでした。明るく優しい性格でしたが、淋しがり屋でも有ったのでしょう。
        ジョビリンさんと知り合い、2人の子供を設けました。
        そこで襲ったのが多系統萎縮症でした。辛い人生でした。

        • kaikoshumi より:

          悠楽士さま
          コメントありがとうございます。
          晶子元夫人は小5で交際を・・・、びっくりです。
          そして悠楽士さんは司会をおやりになったのですね。

          私も入江さんから晶子さんが学校出て直ぐに結婚したこと、塩狩の初代社長から継いで欲しいと言われたけど相当悩み葛藤した、現地の町は何もサポートしてくれない、などたくさんお話しを伺いました。

          でも本当に純粋な人でしたね。
          ジョビリンさんともお二人のお子様がいらっしゃるのですね。

          私は今でもあの穏やかだけど精力的にホテル運営をされていたお顔をしか思い浮かびません。

          再訪ありがとうございました。
          当サイトには他にも北海道関連、その他面白いそうな(?)記事もありますので、またお出でくださいませ。

          • 悠楽士 より:

            kaikosyumi様
            入江君と連絡が取れなくなり調べようとしたのですが、個人情報に阻まれ、又、ジョビリンさん子供達からも連絡がなく葬儀にも行けませんでした。関東でライフル協会に参加していましたので、日常的にコンタクトが有ったのでしょう。ライフル射手さんを含め、お世話になった皆様にお礼申し上げます。
            気になるのは彼の訃報が北海道の家族や関西在住の兄、妹に届いているかどうかです。有難い情報を感謝致します。他の関連項目も拝見させて頂きます。有難うございました。

  14. kaikoshumi より:

    悠楽士さま
    コメントありがとうございます。
    普段会っていない人だとなかなか連絡手段がありませんよね。

    本サイト(記事)が僅かでもお役に立てたようで嬉しい限りです。

    本サイトの主旨は、「何処にも出ていないあの日のあの時のことを思い出させる」ことでございます。

    これからも「懐かしい」を共有できれば幸いです。
    ご訪問ありがとうございました。

  15. はじめっち&ゆたか&みならいかのん&つるみん より:

    自分らのころは、伊藤Pだったか入江Pだったか、覚えていませんが、
    ちょくちょく通わせていただきました、あははは…
    やっぱ、メシですね。「ラム肉」のみお替り自由だったもんで
    和寒のエーコープで、もやしとかピーマンとか個人で買って、台所で切って
    むっちゃばぁ死ぬほど喰いました。
    あと、スタッフ曰く「毒キノコなべ」っちゅうのがありまして(正式名称:タモギタケ鍋)、
    黄色いキノコでいかにも毒々しいのですが、豚肉と白菜と相性が良くて、
    んでも、タモギと豚肉が少なかったので、
    やはり、和寒でたくさん仕入れて、鍋で日本酒、
    〆はたまごぞうすいで、あきれるほど喰いました。
    ミーティングはシーズン以外は特になかったのですが、旅慣れた人がおおく、
    自然とそういった場が開かれていました。
    いろいろな方が来てまして、冬場、ソフトオンデマンドの役者兼producerさんが
    自転車で40号線を野宿しながら北上する中で、YHに宿泊されて、
    その目的と関連したアダルトビデオ作品について熱く語られてたことはとても面白いエピソードです。
    ・・・YHじゃなきゃ聞けないかもはじめっち

    YHの食堂に(今でいうところの)コミケの漫画雑誌が置いてあってのす。
    主に鉄道関係の作品で、興浜南・北線がつながっていたら…という仮想現実の話など、
    「鉄ちゃん」や「カワイイ系?アニメマニア」が喜びそうな
    冊子が何冊もカラーボックスに積まれてたっす。
    「これ、欲しいっすけど…」と聞いてみたんすが、
    「すんません、これ一冊きりで絶版なんで…」
    と、当時のヘルパー(というより旅館内YH部主任って感じの人)に言われて断念す。
    その方が「毒キノコなべ」の名付け親で、それらの作品群の作者で、
    現在、和寒福原の小学校跡地で民宿経営しているかたらしいのっす。
    ・・・当時この人がPだと思ってたっすゆたか

    ここのお土産屋で「塩狩峠」の名前が笠に入ったランプを買いました。
    ずっと飾っていましたが、引っ越しの時に紛失してしまって、
    とうとう、火を灯すことはありませんでした。
    ・・・従業員の方は「ちゃんとつくよ!」って言ってましたみならいかのん

    あたいはむずかしいことはよくわかんないけども、
    塩狩YHといえば、「岡商店」なのだ。
    腹へった時の神頼み、今では期限切れのパンなんて置こうものなら、
    文句が飛び込んできそうなもんだども、全然気にならなかったっす。
    ホステラーってば、みんなにこにこして食べてたのだ。
    「これ売れ残ったけど」って、350㏄のファンタアップルを
    「味見」と称して飲ませてくれたりしたのだ。
    ・・・懐かしいのだつるみん「岡旅館」も焼けてなくなっちゃったのだ

    みなさんがしんみりまじめなことを書かれているのにそのあとにこの内容…返す返すもすいません(はじめっち)

    • kaikoshumi より:

      はじめっち&ゆたか&みならいかのん&つるみん 様
      コメントありがとうございます。

      ●和寒のエーコープ
      現在は国道40号線沿いで「ホクレンストア和寒店」として営業しています。和寒町内には実は駅の近くの方に「みしま」というスーパーがあったのですが、今はホクレンストア1店になってしまいました。当時のAコープあとはホクレンの資材置き場になりました。

      ●毒キノコ鍋
      この名前は覚えていませんが、確かにいつでも「黄色いきのこ」でしたね。
      実は和寒町内には「塩狩きのこ」という会社があり、きのこは隠れた名産品です。
      私はこのYHで黄色いきのこ以外見た記憶がありません。

      ●和寒福原の小学校跡地で民宿経営・・
      実は彼を良く知っています。今は疎遠ですが彼も私を覚えていると思います。よく遊びました。
      この民宿は泊まってはいませんが今でも健在のようです。冬は行くだけで大変だし、夏は熊がちょっと恐いです。

      ●岡商店
      なつかしいです。途中からコンビニなったけど閉店して今もそのままになっています。
      塩狩峠付近でお店をやるのは無謀です。峠を下った和寒市街地にはコンビニが国道沿いに3件もあって各店ともそこそこお客が入っていますので岡商店さんも市街地でやっていたら今でも健在と思います。

      また当サイトにきてくださいね。

  16. ライフル射手 より:

    kaikoshumiさま 悠楽士さま
    お別れ会にはジョビリンさんと二人の子供。
    晶子さんの娘さん家族。
    晶子さんとは離婚されたので参加していません。
    お兄さんと妹さん。
    元ライフル射撃の仲間二人。
    私はタイのバンコクに住んでいるので参加はできませんでしたが6年前、東京で何度か会い酒を飲みました。
    お別れ会の写真をアップしておきます。
    https://www.facebook.com/takashi.tsuji.1291/timeline?fb_dtsg_ag=AdycDaTHTgNAaiul5OUfuwLJGG-9chlvIz0FhrlOw3TlIA%3AAdyfJrKO_gBD17z5Yz2eRjbIHSAfdzACnt7R7o1-lufWlA#_

    悠楽士さま
    私の名前は今村です。
    どこかの射場で会ったことがありますか?

    • kaikoshumi より:

      ライフル射手 様
      コメントありがとうございます。
      死というものは寂しい以外の言葉がありませんね。
      ましてや入江さんのようにまだ年齢的にお若い方は。

      なんであんなに元気な方が・・・と思います。

      ともかくご冥福と残されたご家族のご多幸をお祈りするだけです。

    • 悠楽士 より:

      ライフル射手様
      入江君の葬送の写真有難うございます。
      コメントが上手く送れたか不安なので改めてお送りします。重複するかも知れませんが悪しからず。
      葬儀にはジョビリンさん一家。関西からお兄さん、妹さん、更にアキヨさんも参加してくれたのですね。寂しい葬儀になったのでは、と心配していましたが、ライフル関係の友人の方々を含め、多くの皆様が参列され、彼の人柄が偲ばれます。連絡を頂ければ私も参列したかったのですが残念です。気持ちの整理がつきました。キミカズ君も大きくなった。3年ぶりです。中学を卒業しましたね。ジョビリンさんを支えてくれることでしょう。私は射撃の経験は有りません。彼と大学で射撃同好会を作りましたが塩狩で空気銃を撃った程度です。私の名は田中です。
      kaikosyumi様、ライフル射手様には深くお礼申し上げます。有難うございました。

  17. 悠楽士 より:

    ライフル射手様
    葬儀の模様並びに写真有難うございました。
    同期生に配信したいと思います。ご了承下さい。
    キミカズ君も大きくなったものです。今年中学を卒業しましたね。ジョビリンさんの支えになってくれる事でしょう。お兄さん、妹さん、アキヨさんも参加してくれたのですね。寂しい葬送を心配していました。連絡をくれれば是非参加したかったのに、残念です。私と彼は大学で射撃同好会を作りましたが、私自身は射撃を経験しませんでした。塩狩で空気銃を打たせてもらった程度です。
    この様な結末ですが状況がはっきりしたことですっきりしました。kaikosyumi様、ライフル射手様に深くお礼申し上げます。たなみに私は田中と申します。
    有難うございました。

  18. んにゃ より:

    今から25年前の8月に1泊しました。なんかやたら人がたくさん泊まっていたこと、『船泊ユースホステル』から『ユースホステル大雪山白樺荘』に移動する際に利用したこと、『塩狩駅』から乗り降りしたことぐらいしか記憶には残っていませんが。
    当時から『塩狩駅』はユースホステルの宿泊客しか乗り降りしないと耳にしてたような気が・・・。すぐ近くに『塩狩ヒュッテユースホステル』がある今でもある意味同じ状況なんでしょうけど。

    ここまで書き込まれたコメントの内容、ニックネームがあちこちに散りばめられていてよくわからないところもあるのですが、数多くの人達が集う場であったことだけはなんとなく理解できました。
    私にはユースホステルで知り合った人たちと定例的に会う集いとは無縁の人生なので、このように旧交を温め合える関係がある皆さんがとても羨ましく感じられます。

    • kaikoshumi より:

      んにゃ様
      コメントありがとうございます。
      塩狩にも行かれていらっしゃるんですね。
      塩狩はYH全盛時代の北海道でも極めて地味な存在で、あちこち旅した人でも「知らない」、「行ったことない」という方も多かったのです。

      >知り合った人たちと定例的に会う集い・・・

      →会う時は楽しかったですが、残酷な時の流れとでも言うのでしょうか?
      学生時代の友人のようにどんどん疎遠になって行きます。
      今でも数人の方と親交はありますが、本当にほんの数人になってしまいました。

      だからこそ思い出と今の親交を大切にしたいと思います。

      ご訪問ありがとうございました。

  19. 悠楽士 より:

    kaikosyumi様
    その後「ライフル射手」様のお蔭でジョビリンさんから連絡を頂きました。12月26日又は27日頃、京都で入江君の一周忌の法要を行うとの事でした。私も参加しようと思っています。同窓生も参加してくれる事でしょう。取り急ぎ経過報告まで。

    • kaikoshumi より:

      悠楽士さま
      コメントありがとうございます。
      12月に法要があるのですね。
      出来れば参加したいとは思うのですが、当方現在札幌ですので無理かもしれません。

      例え無理でも当日は京都に向いて手を合わせたいと思います。

      情報ありがとうございました。

      • 悠楽士 より:

        了解です。
        色々お世話になりました。
        久しぶりにジョビリンさん、入江君のお兄さん、妹さんにお逢いできると思います。
        有難うございました。

  20. いのっぺ より:

    お邪魔いたします
    私は1978年(昭和53年)の夏にヘルパーをさせて頂いたものです
    高校3年生だったのですが YH新聞の募集を観て応募しました
    当時 高校生ヘルパーの採用は道内では初めての試みだったそうです。朝早くに近くの牧場から搾りたて牛乳の搬入、夕食ジンギスカンの準備、毎夜の花火大会、ミーティングなど 他にも書ききれない程、楽しい思い出ばかりでした・・・そういえば北側にあったドライブインでバイトしていた可愛い女の子がいたのですが恥ずかしくて一言も会話できなかった事を覚えています(^▽^)/

    今週の土曜日(11月24日)40年ぶりに再訪します 宿泊したかったのですが 2006年に閉館されたとのこと本当に残念です。跡地を散策し40年前に刻んだ青春の1ページを顧みたいと思います。

    kaikoshumi 様 皆様方
    このサイトに辿りついてよかったです

    また訪ねさせてください
    ありがとうございました。

    • kaikoshumi より:

      いのっぺ様
      こんにちは。コメントありがとうございます。
      様々な思い出がおありのようですね。
      その思い出を振り返る一助をさせて頂いたと思うと私も嬉しいです。

      1978年はその前後で唯一私が北海道に行っていない年なんです。
      だから少なくてもその年にはお会いしていませんね。

      でも私は実は「いのっぺ様」と重なる部分があります。

      ・1978年に高校3年生
       →私と同学年です。ドンピシャですよ。

      ・今週の土曜日(11月24日)40年ぶりに再訪・・
       →今週の3連休ですね。実はこの3連休で私も塩狩方面に行くのです。親戚がいるので。
        私も塩狩の跡地をふらついてみようと思っています。

      この度のご訪問ありがとうございました。

      当サイトは直接ご興味のない分野でも多くの思い出を時代背景と共に語っています。
      ぜひ他の記事もご覧になって「ああ、あの時はそうだったの?」と思って頂ければ幸いです。

      またお出でくださいませ。

  21. 悠楽士 より:

    12月26日入江君の一周忌でお墓参りをしました。ジョビリンさんと二人の子供達、そして久保内君、田中の5人でした。京都五条の小さなお寺、西念寺にお父さん、お母さんと一緒に眠っていました。大変な人生でしたが今は静かに見守ってくれている事でしょう。

    • kaikoshumi より:

      悠楽士さま

      こんにちは。
      ご連絡ありがとうございます。

      入江さんの一周忌無事に終わられたとのこと。
      了解いたしました。

      あまりにも若すぎるご年齢に「人間って悲しいな」とつくづく思ってしまいます。

      ただ今はご冥福を祈るしかありません。

      • 悠楽士 より:

        了解です。晩年の病気を想うといたたまれませんでした。「禍福は糾える縄の如し」正にその通りの人生でした。でも子宝に恵まれ、さらに彼の事を思ってくれる人達、仲間達が多い事は幸いでした。このブログのお蔭と深く感謝致します。有難うございました。

        • kaikoshumi より:

          悠楽士さま

          ご丁寧にありがとうございます。
          今の私には言葉がありません。

          塩狩の記事のみならず他の多くの記事がありますのでまたお出でくださいませ。

          では。

        • kaikoshumi より:

          悠楽士さま
          こんにちは。
          一周忌の写真のことですがお気になさらないで下さい。

          また情報ありましたら宜しくお願い致します。

  22. 遠い昔を思い出しました より:

    そういえば塩狩温泉YHってどうなったんだと思って調べていたら、こちらに行き着きました。とても懐かしく思いましたが、私の記憶とは若干違うようです(笑)
    学生時代に2年ほど(1980年前後)冬にかなりお世話になりました。
    YHを利用して旅行していましたが、混雑するYHが苦手で空いているところを探して宿泊してました。
    そこで行き着いたのが塩狩温泉YHでした。
    ヘルパーさんは私が知っている限りいつも同じ女性が一人でした。宿泊客も通常2−3人で多くて7-8人という感じ。長期滞在している人がいて、いつでもいるので戻ると「ああ、どうも」みたいな感じでした。
    長期滞在の方が連泊の方を率先して旭川に繰り出して昼食ラーメン食べるとかやってましたね。
    相当全国をYHを利用しましたが、こんなのんびりしてヘルパーさんとも割といつも食事も一緒だったアットホームなYHと言う印象です。
    塩狩 in 新宿 とか信じられず、そんなに利用者いたのかというイメージです。
    懐かしすぎて書かせていただきました。

    • kaikoshumi より:

      遠い昔を思い出しました様

      こんにちは。コメントありがとうございます。
      ここは本当にのんびりしているし、真夏のピークシーズンでもほぼ確実に泊まれましたね。

      「困った時の神頼み」的なYHでした。

      1980年前後でいつも同じ女性のヘルパー、とのことですが私が良く知っている人かもしれません。
      とても小柄でショートカット、やや色黒の方ではないですか?

      だとしたらその当時の「主」の方です。
      沖縄出身の方で、ずいぶんと疎遠になっていますが現在の年齢は恐らく70歳にはなっているはずです。

      塩狩in新宿、なんどもやりましたね。
      新宿で集まるときに多いときは15人くらいあつまりました。
      でもほぼ全てがヘルパー及び常連でしたが、一部誘われて初めて来たというホステラーもいました。

      東京の塩狩の友人宅に遊びに行ったこともあります。
      でも既に疎遠・・・。

      現在当時の塩狩の人でつながりがあるのは3人ほどいますが。

      ご訪問ありがとうございました。
      またお越しくださいね。

  23. 遠い昔を思い出しました より:

    >とても小柄でショートカット、やや色黒の方ではないですか?
    色黒の印象はないですが、小柄でショートカットだったので多分その方です。
    今、70歳を超えているとか。
    自分の年齢を考えればあたりまですが、恐ろしい年月が経っているのですね。

    私が覚えているのは、「主」と呼ばれていたのはホステラーの方で連泊をされている方の方ですね。私が泊まった時は本当にいつも数人しかいなかったけれど、その方はいつもいたような気がします。
    もしかしてkaikoshumi だったのかもしれません(笑)。
    冬の塩狩峠の周りを昼に散策するのは楽しかったです。
    関東生まれの私からすると寒さが桁違いの上ですが、無風ならばこの世のものと思えないような景色とパウダースノー、YHに戻ると暖かい部屋と怠惰な雰囲気。
    当時のYHではありえない旅情を味わえました(人気のYHはうるさく盛り上がるの主流)。

    懐かしく思い出したので書かせていただきました。

    • kaikoshumi より:

      遠い昔を思い出しました様

      こんにちは。メッセージありがとうございます。

      ・女性ヘルパーの件
      「小柄のショートカット」は当たっています。年代や女性ヘルパーであること、私が知っているその人です。

      フルネームも覚えていますし、何度か皆で飲みました。
      塩狩を出てからは彼女は故郷に帰らず札幌北部のアパートに女友達(塩狩の常連)と住んでいました。

      知る限りずっとアルバイト生活で、たまに塩狩も戻ることもあったようですが、「札幌で骨をうずめる」と言っていました。

      ・「主」と呼ばれていたのはホステラー・・
      →コレは私ではありませんね。私が初めて塩狩に行ったのは1977年8月で、通うようになったのは1985年からですが、1980~1985年の主的なヘルパーは大体知っているのでその中にいる人でしょう。

      私は今札幌に住んでいますが、生まれ育ちは東京とかなので、塩狩の寒さや雪景色の美しさは衝撃でもあり、感動的でもありました。

      本当に良い思いで、青春でした。
      公の記事では書けない「塩狩のヒミツ」もまだまだたくさん知っているのですが、いつの日か書いてみたいな、と思っています。

      またおいでくださいね。

  24. きよたん より:

    北海道旅行に何度か行った中で、ホテルの温泉に入りたくなって一泊しました。季節外れで誰も宿泊者がいなく、お風呂を貸し切りで入ったことを覚えています。

    ホステルに「塩狩峠」の本が置いてあり、それを読んでいたら面白くて、読み終わるまでもう一泊。次の日は線路まで歩いて行って、小説を体験したような気になりました。

    三浦綾子は知っていた物の初めて読んだのがこの本で、その後は北海道へ行くたびに彼女の小説を読みました。

    北海道のユースは、すっかり減ってしまいましたね。思い出がなくなるようで、ちょっと寂しい気がします。

    • kaikoshumi より:

      きよたんさま
      こんにちは。コメントありがとうございます。

      あの風呂を独り占めとは!
      十分に泳げますね。

      確かに全国的にYHは激減で、若い人も選択肢の一つにさえ入れないという状況です。

      時代の流れで仕方ありません。
      私も家族を持ってからはYHは全然泊まっていませんからね。

      でも本当に懐かしいひと時でした。

      また当サイトへお越しくださいね。

  25. たーやん より:

    初めまして1973年の夏休み ヘルパーの端くれを塩狩ユースホステルでやらせていただいたものです閉館してしまったことを寂しく思っております当時の写真や思い出話たくさん見させて頂き読ませて頂きましたありがとうございましたまた訪れてみたいと思っております今年70歳になる父より

    • kaikoshumi より:

      たーやん様
      こんにちは。
      コメントありがとうございます。

      ヘルパーをおやりになっていらっしゃったんですね。
      私が初めて塩狩に行った4年前のようです。

      YHが一番良い時代だったのではないでしょうか?
      私が行き始めたころも観光資源が皆無でYHもホテルの大浴場以外特徴もありませんでしたが、夏は驚くほど多くのホステラーで賑わっていました。

      今は無くなってしまいましたが、全盛期泊まった人は相当いたのできっと全国には数多くの思い出をお持ちの方がいることでしょう。

      塩狩跡地付近は年に数回所要で訪れていますのでまた当地に変化がありましたら記事にします。

  26. ゆび より:

    初めまして。旭川市内に住む20代半ばの者です。

    私はユースホステルを利用したことはないのですが、幼い頃よく両親に日帰り入浴に連れてきてもらっていました。
    あるときは父の車で、またあるときは母に連れられてJRで。よくここの温泉に入りに来ていたのです。

    池の周りで飛んでいたオニヤンマを追いかけて遊んだこと、売店に置いてあった可愛らしい羊のぬいぐるみを両親にせがんで買ってもらったこと、浴場に置いてあったケロリンの桶で体を洗ったこと…昨日のことのように思い出します。

    実は昨日、こんな状況ですので人がいない場所で少し歩けないかと思い、自分の車で塩狩まで行って散策してきたのです。
    話には聞いていたのですが、実際に建物が無くなっているのを見たときには少し悲しくなってしまいましたね。
    今、あの頃の父のように自分がハンドルを持てるようになって、でも思い出の場所はもう存在しないのだなと実感しました。

    ただ、こちらのブログを拝見して、私もあの頃の懐かしい記憶に浸れたたことを嬉しく思います。
    長文&乱文失礼致しました。このような状況ですので、主様もどうぞご自愛くださいませ。

    • kaikoshumi より:

      ゆび様
      こんにちは。コメントありがとうございます。

      あの温泉を利用されたことがあるのですね。
      建物は古かったですが温泉は広くてのんびりできて良かったです。

      特に私は冬が好きでした。暖かい温泉から見る雪景色は最高でした。

      でもおっしゃるように跡形もなくなってしまいましたね。
      寂しい限りです。

      当サイトには様々な「あの日」がありますのでまたおいで下さいね。

  27. 浜のヨースケ より:

    はじめまして。横浜の洋輔と申します。半世紀前の高1生の時に鈍行列車で日本一周をした際、当時の塩狩荘YHに宿泊した縁で、大学3年生の時(74年)にヘルパーをさせていただきました。ちょうど建物が新装し、SLが廃止される直前だったので、全国から大勢のホステラーがみえました。実は、その中の京都から来た女子大生の一人が、妻です。あのころはインターネットなど無い時代でしたから、私は、塩狩の楽しい出来事やYH活動の現状などを「旅行ホリデー」誌に載せたりしました。伊藤ペアレントご家族には大変お世話になり、私のささやかな人生の中で、塩狩は特別な場所なのです。昨日、偶然にも貴殿のページに出会うことが出来、感謝しています。また、悠楽子様の三人組とは、塩狩以前に私が中2生の時に西十和田YHでお会いしたご縁があり、今回、コメントを拝読して、入江氏が亡くなられたことを知り驚いております。合掌

    • kaikoshumi より:

      浜のヨースケ様
      こんにちは。コメントありがとうございます。
      恐らく私よりも8つ先輩ではと存じます。
      塩狩荘は私が北海道に行き始める前の名称です。
      その名称は知っていましたし、当時の写真も見たことはあります。

      時代の流れと共にYHはどんどん廃止となり、お世話になった方も故人になってしまい寂しい限りです。

      私は年に数度塩狩方面に所要で行きますのでまた写真などをアップします。

      なお当サイトには様々な「あの日」がございますのでぜひ他の記事もお楽しみ頂ければ幸いです。
      ご訪問ありがとうございました。

    • 悠楽士 より:

      浜のヨースケさん
      50年以上前ですね。西十和田YHと思っていましたが、黒石YHでした。残念ながら黒石での写真は残っていません。お元気そうで何よりです。同窓生からの連絡で貴君が投稿されていることを知りました。

  28. 浜のヨースケ より:

    三日前に初めて載せていただいたコメントの補足です。
    1974(昭和49)年、新装なった新生・塩狩温泉YHのヘルパー1期生としてお世話になりました。あの夏は、全国から
    大勢のホステラーの皆様にお越しいただき、ありがとうございます。
    今般のコロナ自粛の中、慣れないPCをいじっていたところ、偶然にも塩狩の話題に出会い、懐かしい記憶が次々と蘇って来ました。
    さらに、YHだけではなく、僕の好きな鉄道をはじめ、街や店、曲など多彩なジャンルのページを拝見、拝読し、とても心地よい気分です。
    家人からは、「そんな昔のことをッ!」と呆れられていますが、まさに、貴サイト名のごとし、であります。

    • kaikoshumi より:

      浜のヨースケ様
      コメントありがとうございます。
      塩狩の建物は1974年に新装になったのですね。
      これは存じておりませんでした。

      >・・多彩なジャンルのページを拝見、拝読し、とても心地よい気分・・

      →どうもありがとうございます。こういって頂けるととても嬉しいです。なんだかウキウキします。
      私のなけなしの脳みそでもあれこれ記事を書いていくとどんどん連鎖的に思い出していき、

      「そうだ、こんなこともあったこれも書いてみよう!」

      という気持ちになります。
      自分もよくあんなこと覚えていたな、と感心することもあります。

      当サイトは「誰からなんと言われようと偏見はなく独断だけであの日あの時」をお伝えするサイトです。

      どうかこれからもよろしくお願いします。

  29. 悠楽士 より:

    浜のヨースケさん。お久ぶりです、50年以上前ですね。
    同窓生から貴君が投稿されていると知らされ、探してみました。十和田湖そして塩狩荘以来です。西十和田ユースホステルでしたね。写真を見ましたが貴君は写っていない様です。お元気そうで何よりです。

    • 悠楽士 より:

      浜のヨースケさん
      クボちゃんからメールがありました。
      やはり西十和田YHだった様です。

  30. 4あほ より:

    久しぶりにこの界隈ばぁ徘徊してたらってば、
    このブログと記事さ、どんどん成長してるすなもし。
    小坂町西十和田公営、黒石(温川温泉?)…とか、行ったことはないっすが、
    ファールチップ(かすった)したことはあって、懐かしかったりするのっす。
    ・・・こんまま成長したらどがいなっちまうのっすか?ゆたか ほか

    てなわけで、ほかんとこも徘徊してきます。
    ・・・はじめっち

    • kaikoshumi より:

      4あほ 様
      ご訪問ありがとうございます。
      おかげさまでこの塩狩と帯広はコメントが盛況です。
      感謝感激です。

      他にも書きかけの記事がたくさんあるのですが完成形に持って行けたのがまだ少しです。

      コロナのせい、ではないのですが少々記事作成速度が下がっております。
      でも懲りずに来てくださいね。

      お待ち申し上げます。

  31. 浜のヨースケ より:

    悠楽士 様 

    お久しぶりです!半世紀来のご縁を嬉しく感じております。

    このたびは、当サイトに出会えたことで、悠楽士様のお仲間だった入江氏の晩年を知り、アッちゃんと順風満帆に二代目を継がれていると思っていただけに意外で、驚きました。

    西十和田YHでお会いしたあとは、車で東北一周を続けられ、翌年に北海道へ渡られたんですよね?
    中2生だった私は、友人と二人で五能線経由で阿仁合線(現、秋田内陸縦貫鉄道)に入り、岩野目という小さな無人駅で、隣り駅の駅長に許可を受けて野宿をしていたところ、通りかかった警察官の好意で阿仁合警察署に泊めてもらいました。(留置所ではないですよ)
    ただ、私の家のある横浜の警察へは家出人保護という連絡が入り、「そんなハズはないッ!」と、父が慌てたというエピソードがあります。

    翌年、私も渡道しましたが、サロマ湖の夕日を見た途端、初めての一人旅でホームシックに陥り、予約していた塩狩荘へも立ち寄らずに帰浜してしまいました。もし、この時、予定どおり塩狩へ行っていたならば、悠楽士様たちとお会いしていたかもしれません。
    でも、次の高1生の夏休みに、蒸気機関車のススが目に入って泣きながら投宿した塩狩荘で、偶然にもK様と再会したのです。

    そのK様から昨夜、10数年ぶりに電話をいただき、昔話が弾みました。
    大学3年生当時、私が塩狩温泉YHでの初めてのヘルパー体験で少し悩んでいた際、社会人となられたK様が、わざわざ休暇を取って大阪から(文字どおり)飛んで来てくださり、励まされ、感謝しています。

    風の便りによると、お世話になったママさんもご健在で、来月には90歳になられるそうです。
    塩狩温泉の建物は消えてしまいましたが、貴重な思い出は鮮明に残っています。
    大先輩のお二人に、また、お目にかかれる日を心待ちにしております。
    お互い、コロナには嫌われて、もう少し長生きしましょう!

  32. 悠楽士 より:

    浜のヨースケさん
    返信有難うございます。西十和田YHの後、私達は北海道へ渡り一周しましたよ。稚内への行き帰り、食事のよかった塩狩荘に2泊しました。時間が流れ入江君が神奈川に来てからはスカイプで連絡を取り合っていました。元気な彼が多系統萎縮症と言う難病に取りつかれ厳しい状態になりました。彼の他界は本ブログで偶然知りました。有難い事です。
    クボちゃんと電話連絡がついた事、了解です。語り切れませんが又、お逢いしましょう。お元気で!!

  33. 浜のヨースケ より:

    悠楽士 様

    お返事ありがとうございます。
    西十和田YHでお会いしたあの夏に北海道へ渡られたんですかぁ~、私の思い違いでした。なにせ、半世紀以上も前の記憶なのでスミマセン。
    ともあれ、当サイトのおかげで、こうしてお喋りが弾み、懐かしい塩狩を思い出せることに感謝しています。
    また、どこかの宿で大先輩とお会い出来る日を夢見て、オヤスミナサイ!

    • 悠楽士 より:

      浜のヨースケさん
      こちらこそ、思いがけない再会でした。当時の事が懐かしく思い出されます。これからも宜しくお願い致します。
      本ブログの管理人様に感謝致します。
      有難うございました。

  34. ねこ より:

    40年近くぶりに、塩狩の地を通りました
    YHがあったトコは更地になり、驚きました
    私は別のYHでヘルパーをしながら、塩狩YHに遊びに来たのが1984年頃だったと思います

    しばらく連泊していたので、ヘルパーさんや連泊の方々とも仲良くなって、塩狩小学校跡に行ったりした覚えもあります

    イクエ姉さん、サワチン、肉丸、きむちん、ぼんちゃんがいた年です
    その後、札幌で再会して飲み会やったのもよい思い出です
    まゆみちゃんって方もいましたね
    連泊の方だっけ?ヘルパーさんだっけ?
    記憶が少し曖昧です

    また、このサイトを訪れてたいと思います

    • kaikoshumi より:

      ねこ様
      こんにちは。コメントありがとうございます。
      思い出を共有出来てうれしいです。

      >塩狩小学校跡
      →現在ここは養蜂場になっています。とはいっても単に養蜂の箱が並んでいるだけですが。小学校の説明書き(校歌や写真など)の看板は健在でした。
      クマが出そうなので行くのは恐いです。

      >イクエ姉さん、サワチン、肉丸、きむちん、ぼんちゃん・・・

      →全員知っています。イクエ姉さんの家に泊まったこともあります。札幌市内に住んでいた時です。彼女はその後YHか何か(旅関連)で知り合ったはずの人と結婚されて札幌で定住とか聞きました。
      今はどうか分かりませんが、イクエさんは多分今は70歳過ぎているはずです。

      サワチンって確か「サワケツ」とも呼ばれていましたね。

      東京の肉丸の家に大勢で遊びに押し掛けた事もありますし、埼玉の鎌北湖でキャンプもやりました。
      また「塩狩in新宿」とかで大勢で新宿で飲み会もやりました。懐かしいです。

      ただ上記の人たちとは現在は疎遠でたま~に風のうわさを聞くだけです。
      でも塩狩の某メンバーとは今でも連絡を取り合っています。

      「まゆみちゃん」って名前は憶えているのですが顔を全く思い出せません。

      当サイトには塩狩関連の記事がいくつもあります。
      また私は現在札幌在住で、和寒町に縁があるので年に数回塩狩も通ります。
      また跡地に変化があったら記事を書きますね。

      その他にも当サイトは「あの日の思い出」がたくさんありますので是非他の記事もご覧くださいね。

      ありがとうございました。

  35. ガンダーラユースホステル より:

    たまたま塩狩温泉ユースホステルを見ていたら、こいうサイトが出てきたので、書いてみました。普通に泊まっている物ですが、僕は1980ごろから10年ぐらい夏に泊まりに行った物です。礼文島船泊に泊まって塩狩温泉ユースに泊まって帰るというのが続きました。とても懐かしく思い書きました。そして来年2月か3月に塩狩ユースに行く予定です。

    • kaikoshumi より:

      ガンダーラユースホステル様
      こんにちは。コメントありがとうございます。
      時期的に私と重なっています。間違いなくお会いしているはずです。
      特に1985~1987年あたりはホステラーなのにヘルパー側にいたので(通称ホスパー)皆さんの前に出て何かを話していたと思います。

      >来年2月か3月に塩狩ユースに行く予定・・・
      →これは「YH跡」へのご訪問ということですよね?
      または新しく線路わきにできた「塩狩ヒュッテYH」のことなのかな?

      当サイトは他にも塩狩関連、他のYH、北海道、そしてあの日のあの物/町の話題がたくさんございますのでぜひまた再訪下さいませ。

      ご訪問ありがとうございました。

  36. 悠楽子 より:

    12月14日は塩狩温泉観光ホテルの社長をしていた、入江公郎君が入滅して4年目になります。早いものです。ご冥福をお祈りします。

    • kaikoshumi より:

      悠楽子様
      コメントありがとうございます。そうですねもう4年も経つのですか。
      あっという間でした。生きていればまだまだお元気でご活躍されているご年齢、残念でなりません。

  37. 悠楽子 より:

    懐古趣味様
    早いですね。彼の逝去をライフル射手様にお教え頂いてもう4年経ちます。塩狩に縁の有った皆様が憶えていて下されば幸いです。

    • kaikoshumi より:

      悠楽子さま
      おっしゃるとおりです。
      しかし入江さんは伊藤さんに比べると短期間でしたから、塩狩に通った人の中には当然入江さんをご存知でない方も多くいらっしゃることでしょう。
      しかし入江さんのご努力とお人柄は私も忘れられません。

  38. ぼんぼろおやじ より:

    私も45年前日本一周の途中でユースホステルの方に泊まりました女性はユースホステルの風呂へ男性はホテルの風呂へとなり大浴場でラッキーだと思い男3人で風呂へ其内ザワザワと団体のお客さんが入って来て!あれ〜バァチャンも!そのうちの一人のバァチャンが若いのが入ってぞ言い尻まで向ける有様こちらとしては恥ずかしいやら悪い物を見たやらで油湯船から上がれずのぼせたのを覚えている真っ黒い闇だった

    • kaikoshumi より:

      ぼんぼろおやじ様
      コメントありがとうございます。塩狩のYH用のお風呂って覚えていないんです。
      いつも大浴場にしか入っていませんでしたので。昔はあったのですね。
      男性用大浴場は混浴とはうたっていませんでしたが、おばあさんやかなり高齢のご夫婦が入っているのを
      何度か見ていてこちらは(当時若かった事もあり)恥ずかしかったです。
      でも本当に田舎の温泉でした。それが良かったんですけどね。
      また弊サイトへお越しくださいね。

  39. 悠楽子 より:

    今日12月14日で塩狩温泉の元社長、入江公郎さんが亡くなって5年になります。縁の有った方々は是非、ご冥福をお祈り下さい。入江さんの事はこれで一区切りと致します。

    • kaikoshumi より:

      悠楽子様
      コメントありがとうございます。
      あっという間の5年でしたね。早い、そして人生は虚しくもあるとも感じます。
      ともあれ前を向いて楽しく過ごすことが入江さんへの供養ですね。

  40. 悠楽子 より:

    kaikoshumi様
    その通りですね。彼には子供達、孫達が居ます。
    彼等、彼女達が幸せに暮らし、お父様、叔父様の事を想い出してくれたら、と祈るばかりです。

  41. 高校生トリオのひとり より:

    はじめて塩狩温泉ユースに泊まったのは1975年3月中学の同級生二人でSLを求めて北海道に行って泊まりました大浴場に入っていたら女性客が入って来てびっくりした覚えがあります。二度目は1980年3月高校の卒業旅行で行きました。その時に主のイクエさんがいらっしゃいました
    その年の8月末から9月にかけてまた連泊しました。

    西の空に夕日が沈む塩狩峠カラスがかえる、今日1日思い出す旅の宿、塩狩のお湯浸かれば思い出す、遠くはなれたおふくろの顔、
    夜の空に瞬き始める塩狩峠星が降る、今日1日思い出す旅の空、塩狩のお湯浸かれば思い出す、遠くはなれたおふくろの顔
    イクエさんに君はギターが弾けるのだから、この曲をミーティングで歌って本日のホステラー全員に覚えさせなさいと厳命された事がありました。
    1981年3月ここまでイクエさんはいらっしゃいました。1983年5月の桜と1985年8月バイクで行ったのが最後でした。その後ホテルにはお忍びで泊まったことがあります。あの建物が無くなったのは、寂しい限りですが、こういうサイトがあって懐かしい気分になりました。ありがとうございます。

    • kaikoshumi より:

      高校生トリオのひとり様
      こんにちは。コメントありがとうございます。
      1975年というのはSL最後の年でしたので北海道を始め全国各地で大賑わいだったようですね。
      イクエさん、私もよく知っていましたし、彼女は沖縄出身ですが札幌に別の女友達二人と計3人で住んでいました。
      アパートに遊びに行った事もあります。
      彼女はその後1985~1987年頃にまた塩狩に戻っていました。でもその時は正式なヘルパーではなくて常連、居候みたいな感じでした。

      その後確か札幌の板前さんとご結婚されて、札幌に永住すると聞いています。
      しかしその後の行方は分かりません。

      塩狩を始め北海道は当時のYHはことごとく無くなってしまいました。
      今あるYHはその後に新たに建ったものばかりで当時からあるのは礼文島の桃岩荘くらいかもしれません。
      時代ですね。

      また弊サイトにお越しくださいね。

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管理人について

管理人

こんにちは。私の名前は「 ノンダクレー」と申します妻子持ちの普通のクソ親父であります。
東京で生まれ育ち、横浜市に長いこと住み、現在は北海道札幌市におります。
色々と思う事が多くなる年齢、このサイトで「懐かしい街と物」をお楽しみ頂ければ幸いでございます。

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