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杉並ひまわり幼稚園(東京都杉並区)

東京都杉並区の杉並ひまわり幼稚園

西武新宿線の井荻駅から徒歩数分の場所に私立の「杉並ひまわり幼稚園」がありました。

残念なことに2013年3月に閉園となったようですが、私の卒園した幼稚園であり懐かしさと寂しさで胸がいっぱいです。

あちこちのネット記事を読むと閉園をとても残念に思う書き込みが多く、私も悲しい寂しい以外の言葉が見つからず今回記事にすることにしました。

最近の写真及び昔の写真も載せますので卒園した方、関係者の方には一時の思い出に浸っていただければと思います。

本サイトの特色である「個人情報バレバレサービス」の一環としてお教えしますが、私がひまわり幼稚園への入園は昭和40年(1965年)、卒園は昭和42年(1967年)ですのでもう半世紀も経ちます。

でも道路側の建物は閉園になるまで全く変わっておらず驚きを隠せません。

場所はこちらです。


ひまわり幼稚園の「その2」の記事もありますので、本記事をご覧の後にぜひお読み下さい。
(2018年8月4日現在の跡地の写真を載せています。)

杉並ひまわり幼稚園(東京都杉並区)【その2】


【目次】

1.終焉直前/直後の杉並ひまわり幼稚園の写真
2.杉並ひまわり幼稚園の思い出
3.杉並ひまわり幼稚園解体・・・
4.昭和40~42年(1965~1967年)の杉並ひまわり幼稚園の写真


終焉直前/直後の杉並ひまわり幼稚園の写真

最近の写真を以下に載せておきます。

いずれもGoogle mapのストリートビューからの抜粋であり、撮影年は2009年から2015年3月までのものです。

すべてクリックで拡大します。

↓こちらの入り口は私がいたときはなかった気がする。

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↓何とこの建物は私がいたときからある!

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↓築50年以上なのでかなりくたびれている・・・

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↓「徐行」の看板も私がいたときからあります。

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↓2016年1月の航空写真。既に園児の姿はない・・・

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杉並ひまわり幼稚園の思い出

私の思い出となるとなんと半世紀くらい前になってしまうので、卒園生でもギャップがある方が多いかもしれませんが思い出を少しでも共有出来れば幸いです。


当時の園長先生は「小宮先生」。きちんとしたスーツが似合うすらっとした小顔の紳士だった。

私の担任は下条先生。細身の中年の女性の先生だったが黒縁眼鏡で軽くパーマをかけたセミロング。大変に教育熱心で今思い出しても幼稚園の先生の中では「かなりスパルタ」だったと思う。

制服は薄い水色だったと記憶している。かばんはショルダータイプの黄色いものだった。

道路側の建物(「徐行」の看板がついている建物)には通称「大きなお部屋」という板張りの部屋があり、道路側の奥にはピアノが置いてあった。

そして木製の大きな四角や三角形などの積み木があった。

滑り台では当時「ロンドン橋落ちた」の歌が流行っていて、滑り台の一番下で園児が二人両手を取り合ってこの歌を歌い「・・・落ちた」の部分で握り合った二人の両腕を下に降ろして、その中に滑って来た園児の上に被さると「負け」みたいな遊びをやっていた。

給食はないので各自家から弁当を持ってくる。弁当は朝登園したら先生に預けると先生は弁当専用保温庫に入れてくれて昼食は暖かい弁当を食べることが出来た。

この保温庫の上は具合が悪くなった人のためのベットになっていて、適度な温度でベットを利用する人も寒い思いをしなくて良く、かつ弁当も適温に温めることで出来るという画期的なものだった。

後で考えたらサンドイッチやサラダなども温められていたかもしれない。幼稚園児くらいだと「今日のお弁当は温めない方が良い」なんて思わないし家で親に言われても登園時にはすでに忘れていたはず。

当時、園で日本猿を飼っていた。園長先生の趣味だったのかもしれないが園児に命の大切さを教えるためだったのであろう。でも猿は危険な動物なので園児が直接触ることは出来ず檻の外から見るだけだったが、園児のマスコットであり「僕(私)の幼稚園には猿がいる!」と自慢話のネタになっていた。

この猿は私が卒園した後だったと思うが、死んだ後に剥製にされて園に飾られていた。

朝全園児が園庭に集まるときなどはスピーカからインディアンの掛け声みたいな声が入った音楽を流しながら、「きちんと整列してください」などと放送していた。

「大きなお部屋」のピアノの場所で放課後に「ヤマハ音楽教室」をやっていた。有料なのでもちろん参加は任意。私は親の勧めもあってこの教室に入っていた。

そして卒園が近い時期になるとヤマハの方から、「小学校に進学して近隣のヤマハ音楽教室に通うか、ヤマハが主催するピアノ教室に通うかを選択出来ます。」という提案があり(もちろん両方拒否も可。)、私はなんとピアノ教室を選択した! これに合わせて親がピアノを買ってくれた。

(結局私は小1~中2までピアノ教室に通い数回の発表会も経験した。今は全く弾けないが)

別に裕福な家ではなかったが家には車も無かったしそれを考えたら安い買い物だったのかもしれない。なお当時の友人を見回すと家に車がある家はごくごく少数で、持っている家は「そこそこ裕福」な家だったと記憶している。


半世紀も前の事なのでほとんど覚えていないと思っていましたが書き出してみるとずいぶんと覚えているものですね。

というか「書く」という行為が思い出させるのでしょう。どんな昔の事でも記憶は消えていないそうですから。

懐かしいと思うと同時に振り替えると本当にあっという間の2年間だったと思います。

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杉並ひまわり幼稚園解体・・・

Googleのストリートビューで発見しましたが、2016年3月に撮影された解体後(更地になった)のひまわり幼稚園の写真を以下に添付します。

いずれもクリックで拡大します。Google map ストリートビューからの切り出し画像です。

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なんかとても寂しく悲しいです。

その後この土地がどう利用されたのかは分かりません。

何分北海道在住の身ですのでなかなか行けませんからね。

行けなくてもしばらくしてGoogle mapを見れば地図が更新されてわかるかもしれません。


【2018年8月27日追記】

ひまわり幼稚園の「その2」の記事もありますので、本記事をご覧の後にぜひお読み下さい。
(2018年8月4日現在の跡地の写真を載せています。)

杉並ひまわり幼稚園(東京都杉並区)【その2】


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昭和40~42年(1965~1967年)の杉並ひまわり幼稚園の写真

以下の写真はすべて私の卒園アルバムからの抜粋となります。

顔がはっきり写っていますが半世紀も経っているのであえてモザイクなどは入れません。写真の中の人に今会っても全く整合がとれないでしょうしね。

すべてクリックで拡大します。

 

↓卒園アルバム表紙(とても立派)

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↓入園式 1965年4月 左端の紳士が小宮園長、

前列右から3番目の黒っぽい服を着た女性が担任の下条先生。

左側の瓦でない建物が道路沿いの「徐行」の看板のある建物

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↓1966年10月9日の運動会

6枚すべて同じです。

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↓運動会のパンフレット

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↓1966年のクリスマス会。

ここが「大きなお部屋」で前述したピアノ

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↓卒園直前の発表会

この建物は「徐行」の看板のついた建物の北側に隣接した場所にあった。取り壊し直前の青いジャングルジムあたり。

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↓卒園式(保育修了式)式次第

p1060353

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以上ですが、私はもちろん多くの卒園児、保護者、教員、すべての関係者にとって「杉並ひまわり幼稚園」は永遠に心に刻まれるものとなるでしょう。

なお私の入園/卒園年はばらしましたので、もし「あ、俺と同じ年齢だ!」とかの方がいらっしゃいましたらご一報頂ければ嬉しゅうございます。

なおその際は本記事最下段のコメント欄は使用せずに、上段の「お問い合わせ」からお願いいたします。

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8 Responses to “杉並ひまわり幼稚園(東京都杉並区)”

  1. 匿名 より:

    1968年卒園者は自分で描いた絵を表紙にしたアルバムを貰いました

    • kaikoshumi より:

      匿名様
      コメントありがとうございます。
      私が卒園した翌年からですね。しゃれた事をやってもらえましたね。
      私の時は味気ないものですが、それでも今まで取っておいて良かったと思っています。
      また弊サイトにお越しくださいね。

  2. たかぼー より:

    自分は昭和39年の入園かと思います。
    小宮園長のご子息と同じ学年でした。
    園庭に車のタイヤを半分埋めて、とび箱のように遊んだのをご記憶でしょうか?
    このタイヤは私の祖父が寄贈したような記憶があります。

    • kaikoshumi より:

      たかぼー様
      こんにちは。コメントありがとうございます。
      昭和39年入園という事は私の一つ上、つまり幼稚園で1年だけ重なっていましたね。
      一つ上の年で、たった一人だけ覚えている人がいるのです。
      名前は喉まで出かかっているのですが、それ以上思い出せませんが、

      「男の子で体格がよく(多分その年で一番体が大きい)少しだけ赤ら顔(昔はよくいましたね)、
       がっちりしていたけど見た目に反して性格は割と穏やか」

      な人でした。
      何か問題?があると「XX君に頼んでみよう」という人が多くて、私はその人に言えば解決出来るのか
      どうか分からないくせに「そうだね。頼もう」なんて同調していました。

      何か覚えていらっしゃる事はありますか?
      もしありましたらまたコメントを頂ければ幸いです。

      *園庭に車のタイヤを半分埋めて・・・
       →覚えていますよ!割と楽しかったです。当時この幼稚園の遊具で楽しかったのは
        このタイヤ、滑り台、「大きなお部屋」にあった大きな木の積み木でした。

      いや~数十年も昔なのに懐かしく、しかも思い出を共有できるとは・・・・

      また弊サイトにお越しくださいね。
      ご訪問ありがとうございました。

  3. ちいばや より:

    2002年卒園でした。
    当時の園長先生とその息子さんが運営に携わっていた記憶があります。(あり先生と呼んでいたような…)

    私の代は赤いバスの遊具やキノコの回転遊具があり、そこでよく戦隊ごっこをしていました。
    懐かしくなりコメントさせていただきました。良いサイトをありがとうございます。

    • kaikoshumi より:

      ちいばや様
      こんにちは。コメントありがとうございます。
      2002年卒園では私より相当後輩の方になりますね。
      建物や遊具も相当違うでしょうが、私がいた時の建物も残存していましたし、敷地や全体の雰囲気には名残が多いと思います。

      時を超えて思い出を共有出来て嬉しいです。

      今後も弊サイトをよろしくお願いいたします。

  4. たかぼー より:

    よくよく考えたら昭和40年4月入園 43年3月卒園
    でした。同級生ですね。
    卒業アルバムは「自分の絵」でした。クラスによって違うんでしょうか?
    小宮リョウジ君、桐生マサフミ君の名前を覚えています。

    • kaikoshumi より:

      たかぼー様
      こんにちは。
      コメントありがとうございます。

      同級生ですか!!!
      それは驚きです!!今でも井荻にいらっしゃるのでしょうか?

      考えてみたら新卒で初めて入った会社で確か1つ下の人でひまわり幼稚園の人がいました。

      彼の名前は忘れてしまいましたが、幼稚園時代の思い出で盛り上がり、その偶然に驚いたものでした。

      小宮リョウジ君の名前は何となく記憶にあります。でも顔は分かりません。

      しかし幼稚園の卒アルを見ると顔をはっきり覚えていた人が数人いました。

      また他に名前を覚えている人は高山くんだっけな?
      それとよく遊んだし親も仲が良かった石井えみちゃんという女の子がいました。

      彼女は大きな地主の娘だったと記憶します。家も庭もめちゃくちゃ広くて凄かったのを覚えています。
      場所も覚えていますが今地図を見ると多くの家が建っていて土地は手放したのかな?と思います。

      また井口くんという男の子もいて遊びました。彼の家も地主だったと思います。
      今も井口という名字がいくつかあの辺にあったはずです。

      少しづつ名前も思い出してきました。

      みんなどんな人生送っているのかな?としみじみ思います。

      また弊サイトにお越し下さいね。

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管理人について

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こんにちは。私の名前は「 ノンダクレー」と申します妻子持ちの普通のクソ親父であります。
東京で生まれ育ち、横浜市に長いこと住み、現在は北海道札幌市におります。
色々と思う事が多くなる年齢、このサイトで「懐かしい街と物」をお楽しみ頂ければ幸いでございます。

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