秋葉原という街
秋葉原という街の変革
秋葉原は今もってしても世界最大の電気街であり、その地位は不動のものです。
しかし最近の秋葉原の状況、特に20代とかお若い方だと秋葉原と聞いて真っ先に思いつくのは「オタクの街」という事だと思います。
でも違うんですね。本来の秋葉原は。簡単に秋葉原の街の変革を書いてみましょう。
●第二次世界大戦後に闇市として発展した。
●日本の戦後復興~高度経済成長に合わせて電気街として発達して行き、これが現在の秋葉原の礎となる。
●電気街として世界的に不動の地位となるが、一方でパソコンの急速な普及に伴い1970年代後半から「パソコンの街」としての表情も併せ持つようになる。また同時に「電子ゲーム」の街としての発展もした。
●正確な時期は分からないが2000年頃からか、電子ゲームの延長上としてゲーム中のキャラクター関連の商品を取り扱う店が増え始め、それがさらに発展してフィギュアなどのいわゆる「オタク系」商品の店が増えていき、メイドカフェなども出来始めて現在に至っている。
今の秋葉原は「オタク系」の街になっていますが、電気街が置き換えられたわけではないのです。
私にとっての秋葉原はあくまでも「電気街」なのです。
私にとっての秋葉原
【以下、「私にとって」の話なので、電子工学オタ話しが含まれています。分からなくてもそのまま読んでくださいね。】
私が秋葉原に通い始めたのは小学校高学年で、1972年頃だと思います。
家に父が作った真空管アンプやラジオの部品がたくさんあって、それを見ていじって育ったから自然と電子部品に興味がわくわけです。
初めて秋葉原で買い物をしたのは父と一緒に電気街、駅降りてすぐ右側のガード下のパーツ屋が集まっているところのお店で「1石レフレックスラジオキット」を買ったのです。
クリスタルイヤフォンで使用トランジスタはメタルキャンのゲルマニウムトランジスタでした。確か2SA100か101とかだったのではと思います。
選局は単連のポリバリコンで行うC同調方式、ラジオの幅に合わせた小さめのバーアンテナが付いていました。
たかが1石のラジオなのに電池は9Vの006Pでした。というかこの頃のラジオキットは2石だろうが8石の豪華版だろうが電池は006Pが多かったですね。もちろん単三1~2本の物もありましたけれど。
別に高ダイナミックレンジを狙うとか、スピーカーを大音量で鳴らすとかでは無かったんですけど。
ゲルマニウムトランジスタ全盛だったのでシリコントランジスタよりもVbe電圧が低いわけですし、Vce-satがでかいという事もなかったんですが。
でもメーカー製のラジオは単三電池とか多かったと思いますので、006Pでなければいけないことは無かったと思います。
そうそう、006Pって電極が電池の同一面に二つ並んでいますよね。
友人に「ここ舐めてみな!」って言われて舐めたらびっくりするくらいの電撃を舌に感じました。
たかが9Vでこれほどとは!と驚くと同時に「騙された」と一瞬友人を恨みました。
(これも余談ですが、科学教材社のラジオキットは入門用の物はバリコンではなくてコイルのコアを出し入れして選局するμ同調が多かった気がします。恐らくμ同調の方が共振回路のQが大きく取れると思うので選択度や感度は良くなるのではと思いますが、入門用のAMラジオキットならばμでもCでも変わらなかったのでは?と今となっては思います。)
なお多少デザインは違いますがほぼ同じラジオキットが今でも売られているのには驚きでした。もちろんトランジスタはシリコンですけどね。
話を戻します。そのラジオキットがきっかけでいろんなものを作るようになっていたんです。
ラジオも1石レフレックスだけではなくて、2石に、4石に、そして6石スーパーヘテロダインにとです。
キットばかりではなくて本を見ながら(特に初歩のラジオ)部品を買って透明のアクリルケースに組込んだラジオも作りました。
でもアクリルケースは直ぐにひびが入ったり割れるので難しかったですね。他はオーディオアンプも作りました。ここでは書き切れないほどです。
秋葉原に通い始めの頃は新大久保に住んでいたので時間的にも近くてしょっちゅう行っていました。特に正月明けにお年玉を握りしめて・・・という感じでした。
その後横浜に引っ越しましたが、京浜東北線で時間をかけて寝ながらというパターンと、横浜~東京間は東海道で一気に行って東京で山手線か京浜東北線に乗り換えて秋葉原にという2パターンでした。
↓2016年8月の秋葉原のパーツ屋の一部の風景
(某身内が所用で行った時に撮影したものです。クリックで拡大します)
所狭しと並ぶパーツ屋に今でもドキドキします。
写真の田中無線さん、電線のオヤイデさん、半導体ならば任せろ!みたいな若松通商さん、面白いキットが無数に売られているけれど、それなりの電子回路の知識が無いと取説だけでは動かないというキットをたくさん売っている秋月電子さん、ジャンクも掘り出し物が多数の千石電商さんなど今でも健在のお店がたくさんありますね。
友人が秋月さんのキットで「ガイガーカウンターキット」というものを買ったのですが、何やっても動かない。
でも回路自体におかしなところがあって、そこを直したら動いたのです。彼は電子回路のエンジニアだったから出来たんですが、こういうものが多かったんですね。
帰りによく寄った石丸電気
あと秋葉原でよく言った店は石丸電気のレコードセンターとかです。
さんざんパーツを買いあさった後に帰りに寄ることが多かったです。
CDが世に出回る前はLPレコードが主流でしたし、CDが主流になっても映像系は高画質を求めてレーザーディスク(以下LD)を買い求める人が多かったですね。
石丸電気は在庫数の驚くほどの豊富さと共にLP、CD、LDなどを買うとオリジナルのレポート用紙パッド(結構分厚い立派なもの)や、カタログや取説をファイリングしておけるたいそう立派なファイルをおまけでくれました。
また歌手の大きなポスターもくれましたね。
ただ石丸電気でこの手の物を買うときに「ちょっと恥ずかしい・・・」と思う時があるんですよ。
それは店員さんにもよるのですが、とにかくお客さんがいつでも多いので欲しいLP/CD/LDなどをレジに持って行くと順番待ちになるのですが、商品をレジカウンターの前に順番に並べて一つ一つ会計処理をするんです。
自分の番に回ってくると、レジの店員さんが「〇〇のLDをお待ちの方~!」って声をかけてくれるのですが、その際に購入するLDなりCDなりを待っているお客さんが分かるように頭上に持ち上げながら大きな声で言うんです。
でもこれが内容によってはとっても恥ずかしいんですよ。
例えばアダルト系のLDを買う人がいるとします(私じゃないですよ!!)。
店員さんがそのLDを頭上に持ち上げながら大きな声で「〇〇□□ちゃんのXXX(←題名)をお待ちの方~」って言うんです。
呼ばれたお客さんは恥ずかしそうにレジに行ってお金を払います。
周りの人は無言で自分の番を待ちますが、多分心中で「あいつ、あんなスケベなの買ったんだな・・・」って思っているんでしょうね。
もちろん店員さんによっては「これを言ったら恥ずかしいだろうな」と配慮してくれる人もいますけど、たまに純粋というか正直過ぎる店員さんもいましたからね。ご本人はお客さんが間違えないように一生懸命やっているんですけど・・・。
その後の秋葉原
パソコンが急激に普及し始めた頃から秋葉原は電気製品や部品を売る店を止めてパソコンショップに鞍替えする店が増えてきました。
確か駅正面のラジオ会館にはNECのPCショップが入っていたと思います。何度か行っています。bit-INとかの名前でした。
その他にも電気製品や部品を売る店も、形態は変えないけれど店先の目立つ所にフロッピーディスクを大量陳列して売っているお店も増えましたね。
これは電気街として正常進化ですが、あれれ?と思う間に「オタク系」の店が増えてしまいました。
私がよく行った万世橋近くの珍しいアンプやスピーカーなどを売っていたオーディオショップもフィギュアの店になってしまいましたし、あちこちにメイド喫茶が開店しました。
↓以下も2016年8月撮影です。
(クリックで拡大します)
街を歩けば「萌」系のイラストや写真が溢れ、メイド喫茶のチラシを配るメイド服のお姉さんたち・・・。
そして急に観光バスが横付けされたと思ったら大勢の外国人観光客・・・。
確かに秋葉原は大きく変わりました。
でも電気の街であることに変わりはないと思います。メイド喫茶やフィギュアや同人誌を売る店が増えたのは事実ですが電気街として秋葉原はまだまだ威厳を保っていると思います。
でもオタク系の店が増えて良かったと思う事もあります。
それは飲食店が凄く増えたという事です。
電気製品/部品やPCショップ全盛時代の秋葉原は飲食店が凄く少なかったんです。
駅周辺で言えば、秋葉原デパートの1階のフードコート、駅改札横の立ち食いそば屋、近隣のカレーショップ、あとはちょっと離れて老舗のとんかつ屋などでした。
秋葉原に行く度に「こんなに電気関連のお店が星の数ほどあって、いつも大勢の人で混雑している東京の中心地なのになんで食べるところが少ないの?」と疑問に思っていました。
今考えても不思議でした。
ともあれこれからも秋葉原は電気街を中心としながらも健全なオタクの街として発展して頂ければと思います。
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このページも楽しいですね。
石丸電気でラジカセを買った記憶があります
(記憶違いだったらどうしましょ)
引っ越しのときラジカセだけ持って電車に乗ったら、どうにも重くてしょうがなかった懐かしい思い出です。
♪イシマル~イシマル~でんきのことならイシマルデンキ、(なんとかかんとか) アキーハバラ! でっかいわぁ~!イシマル!!♪
というTVコマーシャル放送がありましたよね?
annaさま
こんにちは。コメントありがとうございます。
石丸のTV-CMはガンガンやっていましたね。
>・・なんとかかんとか・・
→この部分は「石丸電気は」が入りますね。
秋葉原に行って石丸に寄らない日は無かったと記憶します。
私は家電は殆ど秋葉原で買ったことがないのですが、やはり記事中のようにCDやLDなどを物色に入店していました。
(家電はヨドバシやビッグカメラで買っていました)
秋葉原の「萌」文化は一体何時まで続くのでしょうか?
日本発の「萌文化」自体は将来も長いこと続く気がしますが、秋葉原が聖地となっていくのか?ちょっと気になります。
ただ電気街だけでは食っていけないのは事実ですね。
ご訪問ありがとうございました。
また当サイトにお越しくださいね。
秋葉原は神奈川県に就職した時、よく行きました。
万世橋たもとのジャンク屋さん。解体された部品を良く買いました。秋月電子も楽しいお店でした。144MHzのアンテナや電源を買いました。何せ暇ですから土曜日の午前中洗濯を終わり昼から出かけました。ICOMのIC-706の発売に先立ち、ロケット商会で予約し、初ロットを買いました。今では液晶がぼけて飾りになりましたが当時は画期的な製品でした。今の秋葉原では迷子になりそうです。
悠楽子様
こんにちは。コメントありがとうございます。
>万世橋のたもとのジャンク屋・・・
→はっきり覚えていますよ。間口は物凄く狭くてジャンクがやたらと外に(道に)せり出していました。
ジャンクが大好きな私はここもよく覗きましたが、でも欲しいものが殆ど無くていつも「見るだけ」でした。
年代物だけどいかにも音の良さそうな大きなスピーカーも売っていました。
秋月電子は私の御用達でした。
でも電子工作をする仲間は皆「秋月は取説通り作っても動かないことが多いので、それなりに電子工学の知識が必要」
とよく言っていましたね。私も同感でした。
回路図見て「これじゃだめだね。詰めが甘いよ」なんていつも思いましたが、とりあえず部品はそろっていたし
発想が面白かったのでいろんなキットも買いましたよ。あそこの店員は大学生のバイトみたいの人ばかりでした。
今は秋月の商品はネットで買えるのがありがたいです。
ロケット商会は大変に歴史のあるお店ですね。
相当前からありますし、私が電子工作に手を染める遥か前は「真空管テレビキット」とか売っていたようです。
父の持っていた古い本に制作記がありましたが、アルミのシャーシに縦ラグをたくさん並べて、大型の部品を
はんだ付けしていくのは楽しそうだけど大変な労力のようでした。真空管の数も相当ありましたし高圧回路もあるのでちょっと恐いですね。
なつかしい・・・
来年こそは秋葉原のジャンク屋にブラっと出かけようかと思います。
kaikosyumiさん
後年、東京に単身赴任した時、会社のワープロと互換性のあるワープロを秋葉で見つけ買いました。社宅でも仕事が出来ました。多分今でも持っていると思います。その頃から山に行きました。八王子や大和の山に登りました。今でも山は好きですが、年と共に機会が減りました。関西では金剛山、槇尾山へよく行きました。
悠楽子様
コメントありがとうございます。
当時は「ワープロ=ハードウェア」だったと思います。
秋葉原にもワープロ専門ショップも多くありました。
私がワープロ専用機を買ったのはブラザーの廉価品でした。
本格的な物が欲しかったですが、あまりにも値段が高く個人ではそんなに使うものでもないので高いものは手が出ませんでした。
ブラザーの物は確か89800円だったかと記憶します。それでも高いですね。
しかも単漢字変換しか出来ませんでした。
今のスマホの文字入力機能の方が遥かに上です。
山は縦走とかの本格的なものはありませんが長野県とかよりも北海道の山には割りと多く登っています。
大沼の駒ヶ岳、雌阿寒岳、利尻島の利尻富士、十勝岳、大雪山系の黒岳などです。
一番きつかったのは利尻富士でした。海抜ゼロから1700mの頂上まで登るからです。
体力的にキツかったのは黒岳でした。
50代半ばで1984mの山はキツかったですね。普段山登ったり体力付ける事はしていませんので。
でも頂上まで行きました。