ユースホステルで歌われた名曲
【重要関連記事 2021年1月30日】
心に染みる歌を知れるユースホステル
ユースホステル(以下、YH)は近年数も大幅に減り、利用者も減りと寂しい限りの減少を続けてきましたが、特に若い方には一生忘れられない、あるいは人生を変えてしまうほどの経験を与えてくれる素晴らしい宿でもあるのです。
事実私は東京で生まれ育ち、横浜に長いこと住んで札幌に家族共々移住したのはYHでの旅の経験があったからなのです。
関連記事: ユースホステルの思い出と掟
YHでは夕食後(大体20時頃から)ミーティングという集まりがあります。
(もちろんないところもある)
ここではスタッフから(ヘルパーと言う)翌朝の説明、近隣の観光案内、交通の案内(バスや電車の時刻など)などのあとに皆で歌を歌ったり踊ったり、バカ騒ぎをしたりします。
YHによって内容や程度は大きく異なり、静かに話をしてお茶を飲んで終わりもあれば真っ暗な外で騒いで踊ったりもあったりします。
しかし近年ミーティングで歌を歌ったりバカ騒ぎをするYHは激減してしまい、ミーティングそのものもないYHが増えたようです。
時代の流れであり、人の嗜好の変化ですので否定もしませんし、当然のことと受け止めます。
しかし私はYHのバカ騒ぎ全盛時代を経験して、一番得たものは「多くの素晴らしい歌との出会い」でした。
ユースホステルで知った歌
YHで歌った歌と言うのはあくまでも私が泊まりまくっていた1970年代半ば~1990年ごろまでのYH全盛~YH下火時代のことです。
もちろん2018年現在も歌って騒いでというYHもあることにはあるようです。
(一番の好例は北海道・礼文島の桃岩荘→TVでもよく取り上げられる)
YHで歌われる歌は往年のフォークソングが殆どで、一部どこかのYHで生まれて各地に広がった名曲などもあります。
また曲は地域性がある程度あり、北と南では違うとかもあります。
私は一応北海道~沖縄までのYHを延べ300泊以上泊まっていますが、北海道と信州に偏っています。
そんな中よく歌われた、心に残った歌をいくつかご紹介いたしましょう。
●旅の終わり
全国のYHでの超定番曲です。(全国は大げさかも?)
この曲は確か北海道の礼文島で泊まった人(ヘルパー?)が作った歌で、旅人の心を捉えて離さない名曲中の名曲です。
あっという間に全国のYHに広がったと言われています。
元々は素人が弾き語りで作った歌ですがレコード(CD以前に)化されて多くの共感を得ました。
YouTubeなどにもあがっているようなのでご興味のある方は検索してみてください。
あなたが旅が好きで(特に一人旅)、観光以上のものを求めている方であればこの曲を聴けば必ず心に響く何かがあると思います。
信じられないかもしれませんが、この曲を聴いて涙を流す人も多いのです。
出だしは「夢のような、旅だった、遠い北の国の~」、最後は「こんなつらい旅なんかもう嫌だ、旅を終わろう、汽車に乗ろう」です。
●ねむるオンネトー
北海道の阿寒湖から南西方向の山中にある美しい佇まいの湖・オンネトーを歌った歌です。
これはオンネトーから4km手前の野中温泉YH(廃YH)にいたヘルパーが作ったと言われています。
私も初めて北海道を訪れた時から数え切れないほど野中温泉YHに泊まっていますが、やはり最初の1泊目でこの歌を「叩き込まれ」ました。
ギターのアルペジオコードから始まる美しい前奏、「夏の山に香る・・」と歌いだしてオンネトーと旅人を結びつけた美しいフレーズ、本当に心が洗われる曲です。
この曲もレコード化されましたしYouTubeにもあるようです。
ぜひ検索してお聞きいただければと思います。ただし北海道以外のYHでは歌われなかったようです。
参考記事: 野中温泉ユースホステル(北海道 雌阿寒温泉)
●ああ利尻島
北海道・利尻島での送迎でよく歌われる歌です。
どこの誰が作ったのかはわかりません。でも利尻島の「オシドマリYH」に泊まった時に「覚えろ!覚えないと帰さない!」みたいな感じで覚えさせられました。
今時「覚えるまで帰さない」なんて行ったら「パワハラ」、「虐待」、「人権侵害」と散々なことになりますが、昔のYHではこういう言い方も今で言う「お笑い」だったのです。
特に連泊者は船で稚内に戻る人のお見送り、稚内からやってくる人のお迎えが日課だったのでこの歌を覚えることが必要でした。
(離島は1泊で帰る人のほうが少ないです)
港の船の前でこの歌を大声で歌いながら踊るのですが、船に乗って見送られる方はこの歌を歌って踊りながら見送ってくれる人たちを見ると全員知らない人であってもなぜか目頭が熱くなったものでした。離島と船旅独特のものだと思います。
以下、曲の歌詞の抜粋です。(レコード/CD化はされていませんが、YouTubeで見送り風景で歌が聴けます。)
「稚内から船が行く~あれがうわさの利尻島~男も惚れるあの勇姿~」
●街
これは元々「高石ともやとザ・ナターシャー・セブン」が歌っていた名曲です。
京都を舞台に(京都という名称は一切歌詞には出てこない)、心に染みるフレーズをスローテンポで聞かせます。
この曲は「釧路まきばユースホステル」(廃YH)でよく歌われていました。
他のYHでは私が知る限り聞いたことはなく、またなぜ釧路まきばでよく歌われたのかは分かりません。
参考記事: 釧路まきばユースホステル
初めて聞いたときにこの曲が大好きになり、カラオケにもあるのでよく歌います。
フレーズの主な部分は以下ですので、ぜひYouTubeなどを検索して聞いてみてください。
「下駄の音、路地裏通り~」
●哀しみのバラード
根田成一さんの名曲です。
40数年前のフォークの隠れた名曲ですが、いつの間にか北海道のYHで歌われるようになったのです。
「北へ、北へ、北へ行く船の~」
というフレーズが北海道への(おそらく)旅を連想させるからでしょうか?
北海道であればどこのYHでも歌われたわけではありませんが、しみじみと旅心をくすぐる曲で、単に旅の感動だけではなくて明日の勇気をくれる曲です。
この曲もYouTubeにはあるようですし、カラオケにもあります。
名曲、秘曲とも言える曲なのでぜひ聞いて頂きたいです。
他にもYHで歌われた歌は数え切れないほどあります。
YHは全世界的な運動(宿泊施設ではなく旅先の教育機関という位置づけがYHです)ですが、歌を歌いバカ騒ぎをしていたのは(過去であっても)日本だけだと思われます。
でもYH全盛時代に泊まって多くの隠れた名曲、または私が幼少時に興味を示さなかったけど青春期以降に聞いて感動したフォークソングなど私の人生や人格形成に大きな影響を与えてくれたのは【YHで歌った歌】であることは揺ぎ無い事実なのです。
これからもこれらの歌を常に心中で口ずさみながら毎日を送りたいと思います。
特に気持ちが落ち込んだ時は私を勇気付けてくれる良き親友であります。
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自分が入会したのは1986年2月なので、そのころは歌い踊るミーティングはほぼなかったです。
宿泊したYHで唯一本格的だったのは、88年の「浜頓別」で、
ヘルパー3人ががギター・タンバリンなどのパーカスもって、
浜頓のテーマ(忘れたけど)を大音響でやって、
2~3曲、「雪山賛歌?」「若者よ?」など歌って、
近くの観光案内、所有の自転車・カヌーの応募者募ったりした後に、
グループの談話なんかに入っていきましたが、ほぼ100%の出席率だったと思います。
けっこう楽しかったですよ。あの時の歌唱集、何処にいっちまったもんだか…
・・・塩狩YHは主にゲームでしたはじめっち
むかし、「小平町望洋台YH」ってとこがあって、
朝、朝食の準備ができたときに流れた曲が、
「ユースホステルの歌」ってやつで、後にも先にも
ここでしか聞いたことのないレアものだったのっす。
ちなみに食事は2食とも家族と一緒に食べたのっす。
ここでは、YH普及活動に一役買ってか、YHを題材にした漫画本が置いてあって、
「サイクル野郎」はもちろん、西岸良平さんの「三丁目の夕日」のなかの「ユースホステル」、
山科けいすけさんの4コマで「悪の秘密結社が
日本の潜伏地で公安に絶対バレないところが、
YHのミーティング」という下りは笑えたのっす。
・・・「ユースホステルの歌」ってばむずかしいのっすゆたか
あたしはそういったミーティングの場に立ち会ったことはないので、
どういう雰囲気・テンションなのかわかりませんが
けっこうでかい声で歌えるもんだと、はじめっちやゆたかは言います。
・・・酒でも飲んでたんじゃないの?みならいかのん
あたいはむずかしいことはよくわかんないけれども、
あたいの主義として、ミーティングがあろうがなかろうが、
YHにはお菓子と飲み物をもって談話室に行くのだ。
こうすると、経験上、ホステラー?との会話がスムーズにいったりするのだ。
んでもって、ゆたかとはじめっちは酒とかお茶っ葉とか、コーヒーメーカーを
持参したりしてるのだ、なんのこっちゃなのだ。
・・・Meetingの補助品らしいのだつるみんお菓子は一人で食べることが多いのだ
はじめっち&ゆたか&みならいかのん&つるみん様
コメントありがとうございます。
「ユースホステルの歌」は題名だけ知っていますが聞いた記憶が全くありません。
YHで歌うような歌ではなかったのかな?
「小平望洋台」は泊まったことがありますが、やはり歌の記憶がないです。
若いときはバカ騒ぎミーティングも楽しかったですが、行く先々で、となると流石に疲れます。
静かにお茶でも飲んで・・・が一番だったかな?
ああ、忘却の彼方に過ぎ去った思い出たちよ・・・
「旅の終り」について少し書きます。
この曲は昭和45年に名大生だった舟橋俊久さんが作詞作曲、最初にレコードにしたのが3年後の48年、舟橋さんの友人の山名敏晴さんであることが現在でははっきりしています。
しかし礼文島の桃岩荘の今年の歌になったのは発売以前の47年で、当時は作者不明の曲でした。でも舟橋さんも山名さんも、ユースで歌ったことは一度もありません。では誰がユースに伝えたのか?
山名さんの話では46年の春に苫小牧を訪れた際に、「旅の終り」を地元の若者に教えたそうです。おそらくそれがまず白老YHに持ち込まれ、桃岩荘に伝わったり(ペアレントの妹さんによる)、別のルートで口から口へ、ユースからユースへと広まったのではと推測されます。このため歌詞やメロディーが舟橋さんや山名さんのとは微妙に変化していきますが、レコードになる以前の話であり、当時のユースどうしのつながりがいかに強かったのかがわかります。
その後52年にレコードが競作となりますが、芹 洋子さんと菅原やすのりさんは歌詞を一部手直ししており、ユースバージョンは青木 清さん、オリジナルは山名敏晴さんと考えて、聞き比べるのもいいのではないでしょうか。
いら かおる様
コメントありがとうございます。
私の大好きな、そしてYHで一番最初に好きになった「旅の終わり」のエピソードを知れてうれしいです。
歌に限らずYHの口コミの速さというのはすごいなといつも思っていました。
あっという間に北海道から沖縄まで伝わる感じです。
でも今はYH会員人口自体が激減していますし、泊まる人も昔のようなホステラーはほとんどいないでしょうから今のYHは「口コミで情報が伝わる」というのはあまりないでしょう。
SNS以前の問題だと思います。
青木清さんは1977年8月に美幌YHでお会いしましたが、私より年上とはいえ、とても素敵なお兄さんで彼の生歌声は今でも鮮明に覚えています。
旅の終わり、は私の頭から離れない一番の名曲です。
情報ありがとうございました。
青木 清さんは、その後シャンソンの世界に転身し、現在は「青木裕史(ひろし)」の芸名で活躍しています。
いら かおる さま
こんにちは。コメントありがとうございます。
青木さんは今はシャンソンなのですか。
知りませんでした。調べてみますね。
彼は基本的な歌唱力は抜群ですのできっとすばらしい歌声を今も披露してくれることでしょう。
ルックスもすばらしいお兄さんでしたね。
横から失礼いたします。
青木裕史(清)さんは残念ながら昨年(2020年)12月19日に68歳の若さでお亡くなりになられました。脳梗塞で急死だったとのことです。
「旅の終わり」や、芹洋子さんとのデュエットで出した「時計台の鐘の鳴る町」は素晴らしかったです。あの澄んだお声の素晴らしい歌をテープに吹き込んで、ウォークマンで聴きながらユースを回った日々が思い出されます。
ひー様
情報ありがとうございます。
驚き以外の何物もありません。若すぎます。理解できないほどです。
たまに青木さんのHPを見に行きますがアップされているお写真は若い時と変わらず素敵なお兄さんでした。
また一つ私の青春のかけらが消えたようにも思え寂しい限りです。
山名敏晴さんの「旅の終り」
6年前の2013年1月26日、名古屋のライブハウスで、「旅の終り」と銘打った山名さんの小さなコンサートが開かれました。前年秋の朝日新聞の特集記事をきっかけに開催したものです。
横浜在住の私も参加し、初めて生でオリジナル版を聞きました。会場には白老YHのOB・OGのグループも、そろいのTシャツで駆け付け、懐かしい青春の歌に盛り上がっていました。
なお当日の模様の一部は、白老YHのFB上に動画があるようです。
いら かおる 様
こんにちは。コメントありがとうございます。
そんなイベントあったんですね。
YHがらみであるイベントというのは大変貴重ではないでしょうか?
行く事が出来ず残念です。
白老は1976年8月にたった1度だけ泊まりました。
ところで「いら かおる 様」は横浜在住なのですね。
私は現在札幌市ですが、8年前までは約35年間横浜市にいました。
生まれ育ちは都内ですが。
私は東京生まれで23年在住。その後21年間、転勤族で北海道から九州まで、YHの旅のように全国を転々。ようやく1995年から横浜に定住?しています。
ところで山名敏晴さんが「旅の終り」を北海道で伝えた若者はベーシストのT・S君。彼が昭和46年に白老YHに出入りしていたことが確認できれば、伝播のルートが確定します。
いら かおる様
コメントありがとうございます。
全国で暮らされたのですね。まさに「旅」ですね。
旅の終り、はいろいろあったようですが、それだけ多くの人の目に耳に触れた結果育てられた名曲なのでしょう。
このような曲はおおっぴらになってほしくないです。
ひっそりとでも語り続けてもらえたらと思っています。
懐かしい曲の数々、数えきれないほどの想い出、1980年頃、北海道行きました。夏も冬も、ユース泊まりました^_^旅の終わり音符♪懐かしいなー、東京から急行八甲田ー青函連絡船、そう、北海道ワイド周遊券の旅、知り合った人と内緒で取り替えてもらったりして期限伸ばしたりね(笑)
テツヤ様
こんにちは。
コメントありがとうございます。
ほぼ私も泊まり狂っていた時代に北海道に行ったのですね。
ご経験されたことが私と全く同じです。(どこかで会っているかも?)
またお越しくださいね。
昭和52年に「旅の終り」が各社競作となりました。これは前年の「四季の歌」の大ヒットを受けて、各レコード会社が「2匹目のどじょう」をねらって、ユースホステルの愛唱歌に目を付けたことによります。
結果は・・・すべて惨敗でした。理由はややイメージが暗く「一般性」がなかったからでしょうか。
むしろ同じLP「いっしょに歌って第3集」に収録されていた「時計台の鐘の鳴る街」のほうが、ヒットの可能性があったかもしれません。
この「時計台~」も当初は作者不詳でしたが、札幌在住の浅沼 修さんが作った曲であることが判明し、タイトルも正しくは「時計台のある街」でした。これもユースならではの口伝えによる変化でしょうか。
いら かおる様
コメントありがとうございます。
旅の終り、の競作は鮮明に覚えています。
あまりにもひどい内容だったからです。
名前は言いませんが大物歌手も起用されていましたね。
途中や最後の方は歌詞を変えてしまったり、「これはいいだろ!」みたいな押し付け感が強くて1度聞いただけで虫唾が走りました。
売れなくて当然です。
このような手法は今でもありますが、2匹目のドジョウは皆失敗していますね。
でも懲りないんですね。
「時計台の・・・」は大好きです。
収録されたLPも買いました。
YHで歌われた歌は、たとえば元がフォークの大御所とかでない限り一般には絶対にヒットしないと思います。
YHやYHのミーティングを知らない人からすれば、YHで歌われた歌は所詮、「大昔のフォークソング」や「童謡の延長線上の曲」にしか感じないと思います。
でもわかる人だけわかれば良いと私は思います。
1年ぶりです。「旅の終り」の作者「舟橋俊久」さんを検索したら、ご本人のFBを発見しました。舟橋さんは名古屋大学を卒業したあと明電舎に入社し、電気工学の分野で活躍されました。その後名大を経て2018年に沖縄に移住し、琉球大学で教鞭をとっていらっしゃるようです。ある意味、舟橋さんの「旅の終り」なのかもしれません。
いら かおる様
こんにちは。コメントありがとうございます。
そうでしたね、舟橋俊久さんですね。
沖縄にいらっしゃるのですか。もともとはどちらの方だったでしょうか?
今はそれなりのご年齢になられているのですね。
情報ありがとうございました。
(数分おきに頂いたものと同じコメントが3通ありましたので、あとの2つは削除しました。何かのバグか誤動作だと思います。)
「旅の終り」を作った舟橋俊久さん。最初にレコーディングした山名敏晴さん。お二人とも昭和26年(1951)の早生まれで、69歳です。(なぜか私もです)
舟橋さんは名古屋出身で就職して東京へ。定年後名古屋へ戻って2年前に沖縄へ移住されたと聞いています。一方、山名さんは一貫して名古屋で音楽活動をしてきました。
ときどきネットオークションに山名さんのLP「ソングブルース/ワンピース」が出品されています。「旅の終り」をギター1本で歌った、いわばオリジナル盤です。なおCDは「すがはらやすのり」さんのものしかありません。
いら かおる様
こんにちは。コメントありがとうございます。
舟橋さんもうそのようなお年なんですね。
この曲を聴くと彼が若き頃にギターを弾いて歌っていた姿(私は見ていませんが)が目に浮かぶようです。
名曲というのは必ずしも世間の多くの人に認知されるものばかりではありませんが、やはり名曲は名曲。
YHが大きく下火になってしまい、今後も持ち返すとは思えませんが、これらの曲はどこかで少しでも歌い続けてもらいたいと思います。
LPやCDなどの情報もありがとうございます。
また当サイトにお越しくださいね。
名古屋大学の学生だった舟橋俊久さんが北海道旅行し、その思い出を「旅の終り」という曲にまとめたのが昭和45年(1970)のことでした。つまり「旅の終り」は2020年の今年、生まれて50年を迎えたことになります。
これからも静かに歌い継がれていくとは思いますが、一つの区切りとして、スポットライトを当てたいという思いがあることも否めません。どこかで「”旅の終り”の50年」のような特集が組まれれば・・などと考えてしまいます。
いら かおる様
コメントありがとうございます。
そうですか、50年とは。
私が初めて北海道を旅してこの曲を覚えたのが今から44年前の1976年ですから50年は当然の事なのですね。
YHで歌われる歌というのは時代を超えて口伝えで伝わって来ていますし、これからもそれは変わらない事でしょう。
でもYHで歌われてYHと無関係の舞台に出て来た曲は「旅の終わり」含めて殆どありません。
でもそれで良いし、それが良いのだと思います。
ただYHに泊まらない人にも心に響くはずなのでその辺は取り上げられても良いかな?と。
けさ(3月13日)テレビで久しぶりに「旅の終り」に接しました。朝日放送系の「旅サラダ」で、俳優の大和田獏さんが2013年に礼文島を訪ねた旅のダイジェスト版です。学生時代の1972年に桃岩荘に宿泊し、そこで初めて歌った「旅の終り」が、今でも心の奥に残っているとのことでした。大和田さんも現在70歳。青春の甘酸っぱい思い出と言えるかもしれません。
いら かおる様
こんにちは。コメントありがとうございます。
何とTVで旅の終わりの話題なんて・・・。
大和田獏さんも桃岩に行っていたとは・・・。
70歳ですか。でもいくつになっても「あの日」は昨日と言えるほど鮮明な思い出ですね。
またお越しくださいね。
昨年亡くなられた青木裕史(清)さんのブログから「旅の終り」のエピソードを一部引用させていただきます。
1977年の各社競作で急きょデビューが決まり、あわててEPジャケットを製作したところ「何か」がなかった。
本来大きな文字で入るはずの「青木 清」という名前がどこにもなかったのです。刷り直しも間に合わず、やむを得ず画面中央の青木さんのすぐ横に、小さな文字で「青木 清」と刷り足したということです。
あらためてジャケットを見ると確かにそのとおりで、当時のバタバタ感が伝わってくるようです。
いら かおる様
こんにちは。コメントありがとうございます。
そのようなエピソードがあったのですか。このレコードは買ったのにそんなことはつゆ知らずでした。
ところで私はよくカラオケに行くのですが、無いと分かっていても「旅の終わり」を探してしまいます。
なぜないんだろう、っていつも思ってしまうんです。
「旅の終り」の作者・舟橋俊久さんの近況を検索していたら、電気学会の学会誌にたどり着きました。その中に「離島研究会」というグループがあり、その発案者が舟橋さんだということです。活動報告の中に舟橋さんを紹介する記述があり、「旅の終り」が誕生した経緯にも言及しています。この研究会は毎年日本の「離島」で開かれており、何か「旅の終り」に通じるものを感じます。なおこの学会誌は2年前の68歳の頃に発行されたものですが、1951年3月25日生まれであることが記されており、つい先日舟橋さんは古稀を迎えられたことになります。
いら かおる様
コメントありがとうございます。
離島研究会、すごい名前ですね。なんか現在の社会情勢からすると領土問題とかを連想してしまいます。
旅の終わりの誕生経緯、私も後程見てみようと思います。
この曲の誕生は様々な想像の域を出ない意見が無数にありますからね。
また当サイトへお越しくださいね。
はじめまして 旅の終り 大好きです。競作だったなんて全く知りませんでした。当時、芹洋子さんが「旅の終り」のレコードを出したことを何かで知って、早速買いました。曲も短くなってるし、歌詞も変えられていて「補作詞 芹洋子」と なっていて、勝手に変えといて補作詞って何やねん、と思いましたが 変えられていたところのフレーズは 結構好きで 時々口ずさんでいました。どちらかといえば 女性向きの歌詞だったと思います。
1977年3月に 四国のユースホステルで仲良くなった人と しばらく一緒にまわり、帰る時にはうちに寄ってと約束して 私は一足先に帰宅しました。後日 約束通り彼女はうちに来てくれ 遊びに行った先で イベントがあり、リクエストした曲をかけてくれる というものでした。
彼女は「旅の終り」をリクエストしたのですが ストックになかったようでした。司会の方も申し訳なさそうでした。あの時はまだレコードになる前だったのかな? ちなみに私は 荒井由実さんの「あの日に帰りたい」をリクエストしました もちろん大音響で流してくれました。
1979年4月、沖縄のユースで「旅の終り」の沖縄バージョンを歌っていましました。「汽車に乗ろう」は「船に乗ろう」でした。
残念ながら、この沖縄の旅以降 ユースには泊まっていません。いつかまた…と思いながら42年が経ってしまいました。 長々と失礼いたしました。
ゴンマリン様
こんにちは。コメントありがとうございます。
旅の終わり、の芹洋子さんVerは私も知っています。でも私はやはりオリジナルの青木さんの方が好きです。
(オリジナル、と言っても別に青木さんのために作られた曲ではありませんが)
確かその他の歌手の方も歌詞を変えて歌った方がいたと思いますが、「なぜ歌詞を変えるの?」という思いが強かったです。
今じゃ考えられないと思いますが。
私がYHに最後に泊ったのは1993年でした。その後はあちこち旅行に行ってもYHには泊まっていません。
自分が年を取って泊まりにくくなったこと、そして近年のYHの話しを聞くと昔とまるで違ってしまった事などが原因です。
でもあの時の思い出は永遠と思っています。
また当サイトにお越しくださいね。
「旅の終り」のレコードについてまとめます。
まず作者の舟橋俊久さんは、昭和45年にこの曲を作りましたがレコード化はしていません。
友人で同じ名古屋のシンガーソングライター・山名敏晴さんが、LP「ソングブルース/ワンピース」を昭和48年に作り「旅の終り」が初めて収められました。翌49年EP盤が発売されましたが、全く売れなかったそうです。なおこの「オリジナル版」はユースに伝わったメロディーとは若干異なります。
これでわかるのは、桃岩荘で歌われた昭和47年に、レコードは一切存在していないということです。
昭和52年、YH協会がLP「いっしょに歌って」第3集を企画しました。この中に「旅の終り」を入れることになり、ユースバージョンのメロディーを採譜して歌手にはデビュー前の青木 清さんが選ばれました。
ここで各社競作騒動が起きました。前の年の「四季の歌」の大ヒットから、YHの愛唱歌が注目されたようです。LPだけのはずだった青木さんも急きょデビューすることになりました。
芹 洋子さんと菅原やすのりさんは、歌詞を一部手直しして発売しました。
一方フォークデュオのBOW、DJのMr.デーブマン、それにダークダックス(LP)は青木さんと同じユースバージョンで加わりました。
本家の山名敏晴さんもジャケットを一新して再度挑戦しました。
しかし結果は・・・すべて惨敗でした。
やはり「旅の終り」は、ユースやホステラーならではの曲だったようです。
なおゴンマリンさんの昭和52年は、競作になる直前だったのかもしれません。
いずれにしても、ほとんどがレコードの時代で、後日CD化されたのは、歌詞を手直ししたお2人の歌だけで、ほかの人はEP・LPレコードしかありません。
別の方のサイトでは7つの「旅の終り」を紹介しているようですが、レコードを購入したい場合は丹念にオークションサイトをチェックするしかないようです。
いら かおる様
コメントありがとうございます。
時代を問わずこの手の曲はレコード化(CD化)しても殆ど売れないのが実情でしょう。
芹洋子さんは「たまたま」だったのではないでしょうか?
私はYHで歌われる名曲はあえてメディアで世に出る必要はないと思います。
メディアに出ずにYHで長年歌い継がれる曲はたくさんあります。
でもYH人口が激減し、さらにミーティングなんてやらないのが当たり前ですから、それらの名曲が途切れるのは寂しい限りです。
はじめまして。私は 60代半ばの主婦です。
先日、遠い昔の雑記ノート等々を整理していたところ
”旅の終わり”の歌詞とギターのコードを書き写した紙片をみつけ、懐かしさですぐに検索したところでこちらのサイトにたどり着きました。北海道に通い(?)始めたのは学生時代の1973年頃から3年ほどでしたが、その頃の思い出は色濃く残っています。懐かしくて・・・うなずきながら読ませて頂きました。
八甲田、夜行列車、時刻表、周遊券、青函連絡船、カニ族、YH、ヘルパー、ミーティング、思い出の歌等々そこに居た人にしか分かりえないワードが満載です。
そして、さらにさかのっぼった時代を探してみようと検索してみたところ、なんと又 こちらのサイトにたどり着いたのです。私、戸山小、戸山中を卒業しているのです。読み進めれば進める程 記憶確認のオンパレードで、少々薄れかけていた記憶が次々と甦ってきました。小学校、中学校はもちろんの事、交通公園、国鉄アパート、諏訪神社、新体、毎日通っていた道、ロッテの工場からの甘い匂い、保善高校はなんだか怖かった。まだまだ他にも・・・語っていただきありがとうございました。
管理人様は今札幌在住とのこと。私も実は現在北海道在住なんです。道民になって四十数年経ちました。
出会えたご縁に感謝いたします。また、おじゃまします。
D51様
ご訪問とコメントありがとうございます。
こちらこそまさに奇跡という出会いに感激しております!
北海道に通ったのが1973年から3年間ということは最後の1976年は私が生まれて初めて北海道に行った年です。
さらに戸山小、戸山中とは・・・。
当サイトに多くのコメントを頂いておりますがこれほどの奇跡は他にありません!
新大久保界隈の思い出も共有出来て大変うれしい限りです。
北海道は今でも変わらず素晴らしい風景を提供してくれますが、旅人であった1970年代は最高の時代だったと今も思います。
全てが懐かしいだけでなくて、本当に夢のような旅路があった時代。
胸が熱くなります。
また歌集云々の話題ですが、当サイトの記事「紋別流氷の宿ユースホステルで使われた歌集」中で、1979年に実際に紋別で使われていた歌集を無償提供しております。
記事中に従ってご連絡頂ければ当時の歌集をデータでお送りします。
もちろん「旅の終わり」も入っています。
最後に当サイトには管理人の「偏見は無いけど独断だらけ」の記事が溢れています。
ぜひ他の記事でも「あの日あの時」をお楽しみ下さい。
またのお越しをお待ち申し上げております。
1年ぶりの投稿です。「旅の終り」の作者・舟橋俊久さんをネット検索していたら、新たなニュースがありました。現在、沖縄在住であることは以前お伝えしましたが、4月にラジオ沖縄が主催する「新唄(みーうた)大賞」に出場するそうです。新しい自作の沖縄の唄で参加しますが「不死鳥(美佐子姉)」という曲でエントリーしています。「美佐子姉」は多分昨年亡くなった沖縄民謡のレジェンド・大城美佐子さんへのオマージュではないかと思われます。
半世紀も前に「旅の終り」を作った舟橋さんですが、70歳をこえて島唄に挑戦します。どんな唄なのか、そしてどんな歌声なのか是非聴きたいところです。
いらかおる様
こんにちは。お久しぶりです。
舟橋さんの話題があるとは思いもしませんでした。
彼は70代にもなるのですね。曲の歴史を思うとそのくらいですね。
確かに彼の歌声は聞いたことがないので興味があります。
ネット等で聞けると良いのですが。しばらくするとYouTubeにもアップされるかもしれませんね。
ちょっと楽しみです。
すみません。舟橋俊久さんの唄のタイトルは「不死蝶(美佐子姉)」でした。沖縄の蝶をイメージしたものでしょうか。なおラジオ沖縄はネットで聞けるようです。大会は24日ですが、生放送かどうかはわかりません。
いらかおる様
コメントありがとうございます。そうですか、沖縄の蝶というと詳しくありませんが南国らしく華やかでいつも明るいイメージです。
今は遠く離れた場所のラジオもネットで聞けるのは素晴らしいです。
またご訪問くださいね。
実は沖縄へ行って、ナマで聴いてきました。残念ながら入賞はなりませんでした。ラジオ沖縄の放送は12日(木)の20時からで、ネットは「ラジコ」で聞けるようです。
映像は一部の個人的な動画しかないような気がします。
なお舟橋俊久さん自身がFacebookを更新しました。本人のことばで「旅の終り」を語っています。
いらかおる様
こんにちは。コメントありがとうございます。
沖縄に行かれたのですか!しかも生で聞いてきたとは!
ラジコで後日聞けるとのこと、チェックするようにいたします。
「旅の終わり」誕生から大変長い年月が経ってしまいましたが、舟橋さんは今もお元気で活躍されているという事は昔のYHを知る身としてはうれしいですね。
今存在しているYHの殆どは1990年以降に建設されたものばかりになってしまったので、完全に昔とは世代が変わっていますね。
YHに泊まらなくてもまたリュックを背負って気ままな旅に出たいと思う年ごろ?になりました。
夢のような〜と今でも一人で歌っていて、ふと検索したら目にとまったので書かせてもらいました。私は今66才で1972年くらいに会員となり九州一人旅、北海道一人旅をしました。ちょうど襟裳岬の歌が流行っていてユースが無くて民宿に無理やり泊まらせてもらったり、冬知床ユースで皆んなで水をかけてかまくら作ったり・懐かしい思い出がいっぱいです。また皆んなと一緒に歌いたくなりました。
あられんこ様
こんにちは。コメントありがとうございます。
「旅の終わり」は本当に心にしみますね。何十年も前に覚えた歌なのに今でも
歌えるし、旅のあの日に戻ったような気がして涙が出そうになります。
見知らぬ同士が集まって歌を歌い同室で泊まるなんて今じゃ考えられませんが
良い時代、良い思い出でした。
また弊サイトへお越しくださいね。
「旅の終り」ではないのですが、最近「時計台のある街(鐘の鳴る街)」のオリジナルシングルCDが無料で配られています。札幌在住の浅沼 修さんが1967年に作詞作曲した作品で、浅沼さんのアルバムからシングルカットしたようです。本人のプロモーションではなく、札幌市や時計台の観光PR用に企画されたと思われ、関連の施設で非売品として配布されているそうです。浅沼さんは73歳で、北海道フォークの草分け的な存在です。なお「旅の終り」と違って、「時計台のある街」はカラオケの配信があるそうです。(なぜかメルカリにも出品されています)
いらかおる様
お久しぶりです。コメントありがとうございます。
無料で配布されているとは!
欲しいとは思います。この曲も知っています。哀愁を感じさせる胸に染みる曲でした。
レコード(いっしょに歌って)では青木さんと芹洋子さんが歌っていたと記憶します。
曲は素晴らしいけど実際の時計台は真裏に巨大ビルも出来てガッカリですね。
青木 清さんの「時計台の鐘の鳴る街」をCDで聞きたくて探したら、芹 洋子さんの「全曲集2013(北海道の旅)」に収録されていたので手に入れました。昔のレコードは持っているのですが、今となっては簡単には聞けません。なおヤフオクにはCDが出品されているようです。
いらかおる様
こんにちは、コメントありがとうございます。
レコードとなるとプレーヤーをお持ちでなければ買わなければなりませんね。
今でもレコードプレーヤーは売っていますが、さほど高いものではないとは言え、わざわざ買うのも、という感じだし、場所もとりますね。
CDだと良いのですが、今は名の知れたアーティストでさえCDを出してもらえないそうです。
理由は確実に売れる歌手、曲でないと制作や販売にお金がかかるからだとか。
だから多くの歌手の新曲はネット配信になるそうです。
時計台の…はとても心に染みる素晴らしい曲です。
せめてネットでいつでも、いつまでも聞けたら良いな、と思います。
「旅の終り」の舟橋俊久さんですが、沖縄へ移住して、最近は「ジントーヨー舟橋」という芸名?で活動を始めています。YouTubeにもいくつか映像や歌声があります。
なお72歳ですので、あたたかく見てください。
いらかおる様
こんにちは。コメントありがとうございます。
舟橋さんはYouTubeを始められたのですね。これならば時間の制約受けずに自由に情報発信が出来ますね。
72歳におなりになられるのですか。YHをきままに旅する青春を送ったみんなも年を取りましたね。というか私もその一人ですが。
でも今振り返っても本当にYHで旅をしてよかった、一生の財産だと思っています。
のちほど舟橋さんのチャンネルを探して拝見いたします。
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この春「旅の終り」の作者・舟橋俊久さんと、最初にレコーディングした山名敏晴さんが、それぞれライブコンサートを開きます。
山名さんがLP「ソングブルース/ワンピース(旅の終り収録)」を出したのが1973年。今年50周年ということで、4月1日・72歳の誕生日に、地元・名古屋のライブハウスでコンサートを開きます。
「旅の終り」は本人が作った曲ではないので、あるいはアンコール用かも。
一方、現在沖縄在住の舟橋さんは、3月31日、浦添のライブハウスで「春とうたもの」というコンサートに参加します。長年サラリーマンだった舟橋さんにとっては数十年ぶりのライブということで、もしかすると真にオリジナルの「旅の終り」を半世紀ぶりに披露するかもしれません。
誰か収録してYouTubeにアップしてくれないかなあ。
いらかおる様
コメントありがとうございます。
21日から泊りで所用に行っていたため承認とお返事が遅れました。
申し訳ございません。
情報ありがとうございます。舟橋さん、山名さんのご活躍は既に半世紀を超えるのですね。
よく考えてみれば旅の終わりはもちろん、YH(特に北海道が)が全盛時代だったのは半世紀前だと思います。
ちょうどか偶然か両名のご活躍時期も一致しますね。
じっくりとかつてのYHで聞いて、歌って心を奪われた「旅の終わり」をしみじみと聞かせてほしいと思います。
またのご再訪お待ち申し上げております。
どなたか、礼文島で歌われていた、あるいはいる「忘れないで」のギターコードご存じありませんか。つい最近聞いて、とても良かったものですから。