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北海道でお世話になった列車たち

北海道を安く安全に旅するのは鉄道が一番!

 

一人旅、特にお金がない学生や社会経験の浅い20代とかの人であれば広大な北海道を安く安全に旅するには何といっても鉄道利用が一番です。

冬も含めてほぼ天候に左右されませんし、割引の切符などを使えばかなりお得に旅が出来ます。

そしてお金で買えない安全安心という最大の魅力もあるのです。

しかし現在の北海道は多くのローカル線が廃止されてしまい、残っている路線も大幅に本数が減り鉄道利用はかなり不便を強いられる事が多くなってしまいました。

かつて北海道旅行の黄金期だったとも言える1980年代前半くらいまでは数多くの列車がローカル線の隅々まで走り、北海道ワイド周遊券を始めとする大変にお得で便利な切符が日本各地で購入出来て、自由気ままな旅が出来たのです。

そのような黄金期に乗った列車たちを利用方法と共に振返ってみます。

なお本記事は決して「鉄道オタク向け記事」ではございませんので、どなた様も気楽に読んで頂ければと思います。

またかつて黄金期をご存じない、その時はまだ生まれていないという方でも少しでも北海道旅行に興味をお持ちであれば楽しく読んで頂けるのでは?と勝手に思い記事を書かせて頂きます。

どうかしばし黄金期の北海道の鉄道旅行にお付き合い下さいませ。

(記事中に出てくる列車の写真が殆ど手元にないというかどこにネガがあるか分からない状況なので、この点はご容赦下さいませ。)

北海道での鉄道交通の実際

2020年現在でも主要都市間には多くの便利な列車が走っています。

例えば札幌~室蘭・函館、札幌~帯広・釧路、札幌~旭川などですね。
もちろん札幌から新千歳空港への「快速エアポート」も旅の必須列車です。

しかしその先に行こうとすると急に不便になります。
各駅停車しかない、くらいは全然良い方で「路線そのものが廃止されてしまった」という区間が非常に多いのです。

「ではバスがあるではないか。バスはとても安いし」と思いますよね?
それが通じるのは比較的大きな都市間だけの話しです。

都市部から離れた小さな町、そういう所に北海道らしい風景があるのです。

さらに北海道は他県と異なり桁外れの広さ、日本全体の22%を占めるほど広大です。
分かりやすく言うと九州2つ分、四国4つ分という広さです。

ですから鉄道が通じている街から先をバスで、と考えても一気に乗り換えなしで目的地に行けるとも限りませんし、近年の人口減少で鉄道どころかバス路線さえも廃止や大幅減便(日に2~3本など)があります。

レンタカーを使えば大変に便利ですが、レンタカーの営業所は何処でもあるわけではありません。
やはりある程度大きな駅でないと利用できませんので事前に十分に調べておく必要があるのです。

1970年代の北海道の鉄道交通は?

1970年代、もう少し伸ばしても1980年代半ばまでが北海道の鉄道の黄金期と言えます。
理由は北海道ブームとかだけではありません。

それは1987年4月に日本国有鉄道が解体されて、全国を6つの旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社に分ける国鉄分割民営化が実施されて、それに前後して多くの全国のローカル線が廃止されたからです。

またそれまでの「普通/快速/急行/特急」という列車体型から急行がどんどん廃止となり、基本は普通と特急の2本立てになりました。快速が残ったのは基本的に大都市圏だけですね。

これにより利用に不便を強いられる駅が増え、停車駅を利用できても急行料金で済んでいたのをわざわざより高額な特急料金を支払わなければならないという羽目になったのです。

しかし国鉄解体までの北海道はローカル線も含めて今は無き周遊券を存分に使って右往左往便利な鉄道旅行が楽しめたのです。

1970年代の北海道の鉄道を利用した旅行の資料を以下に載せておきます。
いずれも昭和50年(1975年)版の「ブルーガイドパック」(株式会社実業之日本社様)からの引用です。

(クリックで拡大します。)

上記の「北海道への交通」の航路の部分で「羽田~千歳は1日25便、1時間15分」という記載について「あれ?」と思う人がいると思います。以下に補足説明を入れておきます。

・1日の運行回数
 2020年現在(新型コロナウィルスによる減便は除く)は同区間は定期便で約52往復/日、コードシェアを入れると約60便/日が飛んでいます。

・所要時間
 現在は約1時間30~40分ですから40数年も昔の方が15~25分も早く表記されているのは間違いでは?とお思いでしょう。
 しかしこれであっているのです。1970年代のジェット機の標準ダイヤでは同区間は1時間10分でした。
 離着陸の滑走路を走る時間を除いた飛行時間は現在70~80分ですが、当時は45~50分くらいで飛んでいたのです。

 実は1973年のオイルショックなどを契機に「燃料費が勿体ないのでそんなにスピード出さなくても。」という風潮になりジェット機も大幅スピードダウンされてしまったのです。

 当時は現在標準時間で60分程度の羽田~伊丹も45分くらいで飛んでいました。

 特急列車も札幌~釧路が6時間と書かれていますが、これは石勝線開通前(1981年開通)なので同区間の特急は札幌~滝川~富良野~新得というルートを走っていたから長時間かかっていたのです。
   函館~釧路を一気に走っていた当時の「特急 おおぞら」だと10時間もかかる長旅でした。

北海道で定番の列車は?

前置きが長くなりましたが私に限らず多くの旅人が便利に使った列車についてお話ししましょう。

基本は1982年以前の列車をあげます。
それは1982年の3月までは(私の記憶違いでなければ)周遊券で特急は乗ることが出来なかったので選択肢としては基本は急行列車となる、当時は特急の合間に多くの急行列車が走っていたなどの理由によります。

従って以下は一部を除き急行列車が中心となります。

急行 ニセコ/すずらん
いずれも函館~札幌間を走る長距離都市間急行です。
地図を見ると分かりますが、函館~長万部までは両列車共に同じ線路(函館本線)を走りますが、そこから札幌までのルートが大きく異なります。

ニセコは北に向かって山中を走り、列車名にもあるニセコ駅を通って日本海側に出て小樽駅経由で札幌に向かいます。
私が初めて乗った1976年8月は茶色の旧型客車を函館~小樽まではDD51ディーゼル機関車が重連で引き、小樽~札幌は交流電気機関車のED75/76にバトンタッチしていました。

ニセコは昔はSLのC62 が引く列車で沿線には多くの鉄道ファンがカメラを構えて待っていたようです。

走行距離は約298㎞ですが、長万部~小樽間は険しい山中で急カーブ、急勾配が連続するのでスピードが出せず、5時間半もかかっていました。

後年のニセコは急行型気動車のキハ56を主体とする編成に変わりましたが、上り列車限定で根室発函館行きという長丁場を走っていた時期もありました。(この走行距離は今でも気動車急行列車の記録)

同区間は「特急 北海」も走っていましたが所要時間は5時間強でニセコと大して変わりませんでした。

急行ニセコは 一部の山間区間では「自転車で飛ばした方が早いか?」というほどの速度低下もありました。
今でも1976年当時のニセコの停車駅を覚えています。

函館―大沼公園―森―八雲―長万部―ニセコ―倶知安-小沢―余市―小樽―札幌

でした。
当時は黒松内など通過駅でしたし、停車駅の数だけで言えば今の特急よりも少ないくらいです。
(同区間を走っていた「急行 宗谷」(函館~稚内)は黒松内も停車駅でした。)

 

すずらんは現在も札幌~室蘭間の特急列車の名称として引き継がれていますね。
元々は函館~洞爺~札幌間の急行列車でした。私が初めて乗った1976年8月はニセコ同様古い茶色の客車でした。

洞爺、東室蘭、苫小牧といった太平洋側のルートを走り札幌~函館の走行距離は約318㎞とニセコよりも約20㎞も長いのですが、全線にわたり良好な直線で急勾配も殆どありませんので多くの区間で最高速度を維持して走れました。

ですのでニセコに比べて同区間を30分以上も早く走れたのです。
途中駅には上述の苫小牧などの他に千歳も通りましたのでビジネスライクの利用客もかなり多かったのです。

でもニセコにも便利な点があって、函館を14時半ごろに出発し、札幌到着は20時少し前というダイヤでしたので昼過ぎに函館に着く青函連絡船に接続でき、一日を有効に使えました。小樽にも19時過ぎ着でした。
この青函連絡船は青森に早朝到着する夜行列車にも接続出来ましたね。

異色の急行「ちとせ」
現在で言う「特急 すずらん」(札幌~室蘭)に相当する列車が「ちとせ」でした。
ほぼ全て平坦区間を走るのに2エンジン仕様のキハ56を中心とした強力編成で、一部の列車は東室蘭を越えて豊浦(洞爺の一つ長万部寄り)発着の列車もあったようです。

↓キハ56気動車 1993年ごろ 斜里駅にて↓
(クリックで拡大します。)

引用元:Wikipedia

画像詳細情報:鯨六寸 – 自ら撮影, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6089365による

 

本数も多くグリーン車まで連結しており、「ちとせ」と名乗っておきながら千歳駅は通過とかの設定もありました。

昔の時刻表を見るとなんと苫小牧~札幌間ノンストップという列車まであったのです!
千歳、新札幌さえも通過の列車だと同区間をわずか55分で走破していました。

めちゃくちゃ早いです。もちろん今の途中の数駅止まる特急の方が時間的にも早いのですが(車両の高性能化による)、当時は急行も急行らしさがあったし、特急はさらに少ない停車駅で王者の貫禄さえありました。

ちとせ」は完全ビジネス列車でしたが、本数も多く特急の合間を縫うような便利なダイヤ設定でした。

でも全車指定席でない列車なのに列車により停車駅がかなり変わるというのは利用客にとってはどうなのでしょうか?
もちろん慣れている方は問題ありませんが、初めて乗るとか滅多に乗らないという人は降りようと思った駅を通過されたりとかもあったかもしれませんね。

札幌から旭川方面へ
この区間は道内最大級の大動脈なので、昔から今でも多くの優等列車がたくさん走っています。
その中で1982年以前、急行列車に限定してもかなりの選択肢がありました。

頻繁に走っていたのは「急行 かむい」という711系という赤い色の電車(ディーゼルではありませんよ)でした。
どちらかというと都市間のインターシティという性格の列車でビジネス客、観光客、沿線の買い物客でにぎわっていました。

かむいは同区間の看板列車である「L特急 ライラック」を補完する役目をしていて、例えば現在の「ライラック」は美唄、砂川なども停車しますが当時の特急は全て通過でこれらの駅に「かむい」などの急行列車が停車していたのです。つまり特急と急行のすみわけがはっきりしていた時代なんですね。

他に同区間で利用できる急行列車としては稚内行きの「宗谷」と「天北」、網走経由の釧路行き「大雪」(夜行列車の設定があった時期もありました。)、名寄行きの「なよろ」などなどたくさんありました。

普通列車も比較的高い頻度で走っていたのでこの区間は大変に便利でしたね。
今も変わらず列車回数は多くて便利ですが、今は優等列車のすべてが特急になってしまいましたけど。

急行 天北(てんぽく)
稚内に行くには宗谷天北という2種類の急行が札幌発着でありました。
札幌からは道北の音威子府(おといねっぷ)駅までは同じルートを走り、そこから宗谷は西側ルート(日本海側)、天北は東側ルート(オホーツク海側)を通って稚内の一つ手前の南稚内駅でまた同じ線路に戻り稚内に至るのです。

注意:両列車は音威子府まで併結運転ではありません。完全別ダイヤの列車です。

宗谷が走る宗谷本線は音威子府から先は天塩川沿いに川と一緒に蛇行するように走り、その後宗谷丘陵地帯を抜けて海側に利尻島、礼文島を見ながら南稚内に走ります。

天北は私が初めて乗った1976年8月はキハ56などを主体とする気動車でしたが、途中から青い客車に変わり、その後また気動車に戻っています。

天北が走る天北線は一部除きずっと平地ですが、荒涼とした果てしない原野を駆け抜けていきます。
日本にこんな風景があったんだ!と初めて乗った方は驚いたことでしょう。

天北の方が所要時間はかかるのですが、私はこの沿線の風景が大好きでいつも往復ともに天北を選んで乗っていました。今でもあの光景が目に浮かぶようです。

以下の記事もご覧下さい。

急行天北(北海道・天北線を走っていました)

急行 えりも
非常にレアな列車と言えますが、利用客も多く日高方面には便利な列車でした。
私は前日札幌泊まりで、次の日が「えりも岬YH」に宿泊だった時に使いました。

札幌からえりも岬に行くには日高本線の終点である様似(さまに)駅まで行き、そこからバスに乗り換えます。

急行 えりも」は1967年(昭和42年)の時刻表によるとなんと3往復もあったのです!

私が乗ったのは恐らく札幌を昼過ぎに出て終着の様似に17時くらい着の便だったはずです。

この列車は途中の苫小牧で進行方向が変わるんです。
一体何両編成だったか? 比較的長い編成だったと覚えています。

この列車は札幌から苫小牧までは「ちとせ」と併結する列車もあったので、苫小牧までは8両かそれ以上の両数だったのではと思うのですが、何分44年も前の記憶、そして細かい情報もネットでは見つかりにくいのであくまでも推測です。

今の日高本線は土砂崩れの影響とは言え苫小牧から鵡川までしか運航されておらず、その先は代行バスとなっています。

鵡川までにしても利用客は絶望的に少なく、高校生の利用にしてもバスで済むのでは?という状況ですし、何にしろ並行して走る日高自動車道は事実上全線無料ですので車に勝ち目はありません。

この区間は札幌からの高速バスも多数運転されています。
苫小牧~鵡川の廃止もかなり近い将来と思えます。残念ではありますが・・・。

急行 狩勝
運行区間は札幌~滝川~富良野~帯広~釧路という長距離です。
当時はまだ石勝線は未開業でしたので(開業は1981年10月1日)、同区間を走る「特急 おおぞら」などもこのように滝川~富良野を通るルートだったのです。

道東に行くにはいつも往復この列車を利用しました。
周遊券で特急が乗れない時代の選択肢は「狩勝」しかありません。

轟音ともいえるディーゼルエンジンの唸りを聞きながら国内最大規模の狩勝峠を越えていく様は誰が見ても乗っても魅了される景色でした。

この狩勝に類似した列車として大雪がありましたが、札幌に向かうのにわざわざ網走経由という列車も大雪にはあったのです。
朝釧路を9時少し過ぎに出て、札幌は18時半頃に着くのです。

地図で見てもとんでもない遠回りで、なぜこのようなルートに走らせるのか今でも意味が分かりません。

でも何度もこのルートは乗っています。
理由は一日中道東を中心とした壮大な車窓を楽しめるからです。
釧路から途中の標茶までは根室標津行きの「急行 しれとこ」と併結でした。

しれとこ」は標茶から先、終点の根室標津までは普通列車となっていました。

釧路発車時のアナウンスは今でも覚えています。

「この列車は9時〇〇分発の網走、北見、遠軽周りの急行大雪札幌行きです。」

参考記事↓

急行 大雪6号/しれとこ3号

 

旭川到着で17時くらいで夏でも陽が傾き始めていましたが、このころには背中もお尻も痛くなり疲労もピークに達していました。

座席の前後が狭い背中直角のボックスシートはやはり若かりし頃でも長時間だときつかったですね。
ボックスシートは前に人がいなければ足を投げ出してくつろげるのですが、夏季のこの列車の乗車率はかなり高く、全線乗り通す人は好き物の鉄道ファンや旅人だけでしょうが、主要都市間での利用がかなり多かったのです。

そんな状態で札幌に到着時には直ぐに腰が持ち上がりませんでしたね。

その他乗った珍急行列車

以下は覚えている範囲で乗った列車についてざっと列挙してみます。

札幌発札幌行き 急行いぶり
実に摩訶不思議な行先の列車ですが、今でいう行先を告げないミステリートレインではありません。
1970年代の北海道の鉄道地図を見て頂くと分かりますが、室蘭本線の伊達紋別から函館本線の倶知安に向かう胆振線(いぶりせん)というローカル線がありました。

ここを通ると千歳を経由してぐるっと1周する札幌発札幌行きを走らせることが出来るのです。

イベント列車ではなくて定期列車であり、全線急行列車として運転されていました。
しかも札幌を起点に東回りと西回りまであり、札幌~東室蘭までは「急行 ちとせ」と併結し、倶知安~札幌間では「急行 らいでん」と併結していました。

この「いぶり」は胆振線内は基本はキハ22という主に普通列車に使われるディーゼルカーでたった1両で運転されていました。

↓道内で普通列車から急行まで万能に使われたキハ22型気動車↓
(2枚とも2002年7月30日に旧幸福駅にて管理人が撮影。クリックで拡大します。)

多客期には2両連結の事もあったようですが、とても急行用と思えない設備を持った(トイレはあったが)キハ22を1両で急行料金も徴収して運転するというのは名物でもあったのです。

但し全線乗るには丸1日がかりとなり覚悟がないと乗れない列車でした。

ぬさまい/池北
朝8時過ぎに帯広を出発し、池田で「ぬさまい」と「池北(ちほく)」に切り離しをします。

ぬさまい:釧路行きの急行列車です。のちに快速列車になりました。

池北:池田を出発すると池北線(のちの「ふるさと銀河線」)に入り、足寄を抜けて北見まで運転されていました。

これらの列車は時間帯が非常に便利で出発前も早朝ではないのでゆっくり身支度をして朝食を食べてから乗車出来たのです。

特に「ぬさまい」は釧路到着が10時過ぎですので、釧網本線で斜里(現:知床斜里駅)や網走方面にも余裕がありましたし、根室に向かう場合でも釧路の街を散策したりしてからでも余裕でした。

そして当時存在した帯広ユースホステルの目の前をこの列車が通過するのですが、夏はこのユースで毎朝列車の見送りをしていました。

前日このユースに泊まった人がこの列車を利用することが多かったので、線路わきで旗を振って大騒ぎの見送りで風物詩にもなっていました。

運転手さんはわざとユースの前を徐行したり危なくなくても警笛を鳴らしたりしてくれました。
見送る方も端の列車から離れた場所とは言え線路上で見送っていたのです。
今は同区間は高架になりユースも無くなってしまいましたが、それ以前に許される事ではありませんでしたね。

以下の記事に見送りに関する事、そのシーンの写真がありますのでぜひご覧下さい。

帯広ユースホステルとその後 (北海道帯広市)

 

池北はどうもイマイチパッとしない列車という印象が私にはあります。
確かに帯広~池田~足寄~陸別~北見という都市間連絡列車の役目を果たしてはいましたが、わざわざ急行料金を取る列車にしなくても、というのが感想です。

普通列車のやや早いダイヤのものと所要時間に大差がないからです。それにしてもふるさと銀河線になってからの同線の寿命は短ったと感じます。

ノサップ
釧路~根室間の急行列車ですが後年快速化されました。
この区間の距離は135.4km、東京駅から沼津駅の少し先くらいの距離となります。

同区間を最速2時間10分程度の所要時間だったと思いますが、沿線の多くが湿地帯で線路状況がかなり悪い路線にしては異例の速さと言えます。

根室はまさに東の果て、釧路までも物凄く遠いのにさらにその先。
でもノサップを利用すればそれほどの遠さを感じず移動することが出来たのでした。
車窓も素晴らしかったですしね。

急行全盛期の北海道は輝いていた

もちろん今だって北海道そのものはもちろんJR北海道だって輝いていると私は思っています。
しかし改めて当時を思い出し、昔の時刻が出ているサイト様などを拝見するとおびただしい量の急行列車が特急の合間に走っていたのです。

今では全国的に優等列車は快速と特急の2本立てが基本となってしまいましたが、1980年代前半までの急行は主要都市間列車であれば指定席はもちろんグリーン車まで付いていたのです。

それも気動車急行であっても。

全国的な人口減少や地方の過疎化などであの時代のようにまた急行が復活して大都市圏外でも優等列車がバンバン走るなんて事はもうないかもしれません。

でもそんな時代があった、という事を記憶にとどめご存じない若い世代にも伝えられたらと思いました。

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8 Responses to “北海道でお世話になった列車たち”

  1. はじめっち&ゆたか より:

    夜行の「狩勝」は、全車指定席だったんで、周遊券では乗れず(急行券+指定席券で乗れるけど)、
    「からまつ」に乗るとかいう選択肢しかなかったような…です。
    うちらのころは、黒松内には客車の「ニセコ」は停まったんですが、
    ディーゼルの急行は(上り『宗谷』以外)、停まらなかったでした。
    どうやら、年代によって停車駅が変わるみたいで、下りの客車「ニセコ」は、80年代半ばには、
    瀬棚線接続で国縫に停車してました。おもしろいもんです。
    上りの「ニセコ」、NHKのドラマ(餓鬼海峡?だっけ、水谷豊出てた!)でリアル見てたような感じします。
    前日の下り「ノサップ」が、グリーン車連結して根室まで走った翌日、
    「ニセコ」になって、函館までグリーン車、通しで乗る人いるのかな?…なんて。
    厚床で1番線下り普通客車、3番線「ニセコ」、2番線に釧路行き普通・中標津行き普通が混在、
    このシチュエーションは見たかったです。
    ・・・「テツ」でないけど見たい!はじめっち

    様似駅がホーム1本しかないから、手前の西様似駅で、列車の交換をよくしてたのっす。
    当時の日高路はとても暑くって、自転車こいでたらふらふらしたんで西様似で休んでたら、
    駅員のおっちゃんが、(無人駅だから)列車交換見ていかんか?と誘ってくれたのっす。
    ・・・急行と普通列車の交換が多かったすゆたか

    • kaikoshumi より:

      はじめっち&ゆたか様
      こんにちは。コメントありがとうございます。
      昔は確かによく停車駅が変わっていたと思います。

      ただ一つ言えるのは「今の特急よりも当時の急行の方が停車駅が少なかったものが多い」ということですかね。

      現在は人口減少等様々な理由があるにせよ、今考えると当時はあんなローカルでもたくさん急行が走っていたのは驚きだと思います。
      それでいてそこそこ利用客が多かったですからね。
      まさに黄金時代でした。

  2. みならいかのん&つるみん より:

    たぶん、その当時の時刻表を見てみると、昼行ディーゼル急行で一番長距離なのが、
    「根室~函館『急行ニセコ』」みたいなのですぅ…。
    「金沢~青森」に「急行しらゆき」なんてのも走ってたみたいですがぁ、
    こいつもけっこう昼間っから頑張ってたみたいですぅ…。
    ・・・もちろん2つとも乗ってないですぅ…みならいかのん

    あたいはむずかしいことはよくわかんないけんども、
    網走経由の釧路行きに夜行列車の設定があるってのは知らなかったのだ。
    んでもって「阿寒」か「大雪」かわかんないけど、函館発の列車で、
    朝、札幌に着いてそっから網走・釧路に向かう(たぶん客車列車)はあったかもなのだ。
    まぁ乗ったことたぁないから、ほんとかどうかわかんないのだ。責任持てないのだ。
    「急行ちとせ」は1年前、TVKで放送してた「ゆうひが丘の総理大臣」で、
    中村雅俊が産みの母親から別れるときに飛び乗った列車が「ちとせ」だったりするのだ。
    意外とこういうものには、まったく「テツ」ではないけど興味あるのだ。
    ・・・こういうテーマ提示されるとストーカーみたく書きなぐるのだ!つるみん

    • kaikoshumi より:

      みならいかのん&つるみん様
      コメントありがとうございます。
      根室発のニセコが一番走行距離の長い気動車急行で、これは今でも変わらないそうです。
      (客車急行ではもっと長いのがある)

      夜行の大雪は私も乗りました。
      1980年頃の8月でしたが、札幌から乗って物凄い乗車率でした。デッキに座っている人さえいたのです。

      古き良き時代と言えるのですね。

  3. キュア梅盛 より:

    キハ400の急行天北に全区間乗りました。
    札幌旭川間は往年のノンストップ急行さちかぜと同じタイムで走るは、泥炭地?で線路状態最悪の天北線内も房総特急よりも速い表定速度で走るなど、「特急以上の急行」でしたね・・・今思うと天北線営業最終日ぐらいはキハ183のフル編成(勿論、ハイデッカーグリーン車組み込みの)で走らせてやればよかったかと。

    • kaikoshumi より:

      キュア梅盛 様
      コメントありがとうございます。
      私が最終天北に乗った時もキハ400でした。
      この車両は一部窓と座席が一致せずに決して快適とは言えませんでした。

      新幹線の(多分東北の)お古の座席を無理やり使っていましたね。
      ボックスよりは快適でしたが窓がない、あるいは微妙な位置の席だとがっかりでした。

      個人的には急行天北で一番良かったのはキハ56かな?
      ボックスシートだし古いけど一番急行らしかったかなと。

  4. 第10宗谷 より:

    1981年、当時中学生で北海道1人旅に出ました。
    1981年にはワイド周遊券で特急に乗れましたよ、確かその年の運賃改定で九州と北海道は特急に乗れるようになったと思います。
    白鳥~青函深夜便と乗り継ぎ、特急は混雑が激しかったので確か急行すずらんで札幌に向かいました。
    確か白鳥で隣に座ったおばさんが釧路までの切符で、へーと思ったものです。
    宿泊は当然YHで、第1泊目は札幌宮ヶ丘YHでした。
    後、旭川、こまどりハウス、釧路まきば等々泊まった記憶があります。
    当時、少年パスでしたから受付でおっ少年パス…と言われるのが気恥ずかしかったものです。
    周りは大学生ばかりでしたから、さすがに場違い感は少しありましたね。
    稚内に行く時に急行るもい~羽幌線で行き、帰りは急行天北でした…
    また1981年は確か北海道は大雨で各地の路線や列車が寸断されていた記憶があります。
    夜行列車に乗る前の札幌駅の地下食品売り場での買い物とか…なぜか記憶に残ってますね。

    • kaikoshumi より:

      第10宗谷様
      こんにちは。コメントありがとうございます。
      1981年で既に特急に周遊券で乗れたのですね。
      私はてっきり1982年だと思っていました。
      でも1980年でないのは確証出来ますが。

      少年パス、ありましたね。
      確かにどこのYHでも「少年パスです。」というと周りは「おー!!若い!」と注目されたと思います。
      (私は持ったことがありませんが)

      あと飛行機のスカイメイトとか。

      >札幌駅の地下食品売り場・・・
      今は様変わりして超近代的な地下街となってしまいました。以前の田舎臭いのも懐かしいですね。

      また当サイトにお越しくださいね。

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こんにちは。私の名前は「 ノンダクレー」と申します妻子持ちの普通のクソ親父であります。
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色々と思う事が多くなる年齢、このサイトで「懐かしい街と物」をお楽しみ頂ければ幸いでございます。

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