夜行列車で過ごす工夫
夜行列車は工夫をしないととても乗れない
現在30代くらいまでの方の多くは夜行列車に乗ったことがないかもしれません。
この記事で言う夜行列車とは寝台車や寝台個室、カーペット席で体を伸ばして眠れる列車ではなくて、座席で一晩明かす列車を言います。
今はそのような列車が無くなってしまいました。
たまーに私鉄も含めて臨時で運転されることもありますが、定期列車から夜行列車は無くなったと言ってよいでしょう。
唯一とも言われていた「ムーンライトながら」も臨時列車になり、新型コロナウィルスによる利用者激減などの理由により休止状態になっています。
だから2021年4月の段階で私が言う夜行列車は無いと言ってよい状況です。
座席で一晩明かすというのは慣れていても結構つらいものがあり、夜を明かす工夫を知らないと翌日体が痛くてひどい目にあいます。
夜汽車への憧れと期待はあるけれど・・・
夜行列車に乗る試練とは?
まさに試練と言ってよいかと思います。
私も散々乗った長距離夜行列車でどんなことを経験して、解決して行ったかをご紹介しましょう。
なお私が一番多く乗った夜行列車は上野~青森間の「急行 八甲田」。
それに続いて同じ区間で運転路線が異なる「急行 十和田」、「急行 津軽」などがあります。
その他には大垣夜行(「ムーンライトながら」の前身)や新宿~松本の夜行の急行アルプス、北海道内の夜行急行 大雪など主に東日本、北日本の夜行列車に数えきれないほど乗りましたので、散々な目にもあっています。
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●座席の確保
お若い方だと「え?事前に指定券取ってあるのでしょう?」と思うでしょうが私が使う夜行列車は圧倒的に自由席が多かったのです。
夜行列車全盛時代は例えば10両編成だとすると、指定席が1~2両、寝台が1両、残りが自由席とかが当たり前でした。
殆どが自由席車両ですから繁忙期は指定席が取れないです。
また学生の時は周遊券を使って旅行をしていましたので、急行自由席の利用であればどんなに長距離列車であっても追加料金が発生しなかったんです。
学生の時はアルバイトでためたお金を有効利用したい、特に交通費は最低限にしたいということがありましたので、意地でも自由席に座っていました。
社会人になると少しお金に余裕が出来るので指定席やたまには高価な寝台も使いましたが、学生時代の習慣が身についているせいか、無理やり自由席も使いました。
私が主に乗っていた時期は当時の学校/会社の休みに合わせると年末年始、お盆、ゴールデンウィークとなります。
ゴールデンウィークは大垣夜行と夜行急行アルプスは混みましたが、青森行きの急行、北海道内の夜行急行は比較的空いている事が多かったです。
しかし繁忙期の自由席確保は地獄でした。
発車時刻の3~4時間前から並ばないとたとえ一人旅であっても席が確保出来ないのです。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、東北/上越新幹線開通前、または開通後も夜行列車全盛時代の上野駅の自由席の列はそれはもうおぞましい光景で、お盆や年末年始の時はホームで長蛇の列が出来るのは危険なので、別のコンコースや時には改札外の広場などに例えば「22:50発 青森行 急行 十和田」とか書かれた立て札の場所に並ぶんです。
↓こんな感じでした。写真は1970年12月の上野駅中央改札口です。
引用元:在りし日 様 https://41-31.at.webry.info/
外の広場で炎天下の時は熱射病とかになると大変なので巨大なテントが張られてその中に行列が出来たりもしました。
私はテントの中の列に並んだことはなくて、殆どがホームまたはコンコースでしたが、コンクリートの床に座って数時間も待つというのは地獄でした。
床には新聞紙やレジャーシートを敷いて、その上に小型の座布団などのクッションを置いて座る人もいましたが、私は古新聞だけでした。翌日からの旅を考えると余計な荷物を持ちたくなかったからです。列車に乗る前でかなりのエネルギーを消費してしまいました。
●飲料/食べ物の確保
私はかなり旅慣れていたので自由席の列に並ぶ前にジュースや水、軽食やお菓子などを買い込んでいたので問題はなかったですが、夜行列車が初めて、もしくは初心者の方は「飲み物などは車内販売で買おう」と言っているのが耳に入ってきたことが何度かありました。
私は心中で「甘い!夜行列車にそんな車販なんて来るか!」と思っていたのですが、忠告してあげる勇気もありませんでした。
各列車は飲料の自販機もありませんし、当然売り子が飲み物や弁当を売りに来るなんてありません。例えば急行津軽だと上野から青森まで約14時間かかりましたが、その間飲まず食わずになります。寝てればよいと言ってもこれほどの長時間乗っていれば喉がとても乾いてつらくなります。
なお時期、列車によっては明け方の停車駅で車販の販売員が乗って来ることも稀にあります。
しかしこれは昼の列車も同じなのですが、車販は混雑が激しい自由席には来てくれないのです。
大きく重たいワゴン、または手で持つ籠で売りに来るにしても通路も人がたくさん立っている車両には当然来ませんし、これません。
だから夜行列車に車販は期待してはいけなかったのです。
●大きな荷物の置き場所の確保
長距離列車に乗る人は帰省、旅行にしても大荷物の人が多い傾向があります。
列車の荷物の置き場は網棚(荷棚)、足元(座席の下)、デッキなどになります。
デッキは盗難などの不安が残るのでやはり網棚や座席の下に置きたいですが、乗って来る人が皆が皆大荷物なのでこれらの場所も無言の奪い合いになります。
網棚は荷物の上げ下ろしが大変だし、しっかりと載せておかないと走行中に落ちてくる可能性もあり得ます。だから座席の下や座席の背もたれどうしの間に出来た空間に荷物を置くのがベストです。
乗るのがちょっとでも遅れたり、まごまごしていると大荷物なんて置く場所を確保できず、自分の席から遠く離れた別の席の方のスペースやデッキに置くという事になります。
●体の置き場所
座席しか体を置く場所がないのだから何故に?と思われることでしょう。
しかし当時の多くの夜行列車の席はボックスシート(4人が向かい合わせになって座る)でしたから、さっさと場所を確保しないと進行方向と逆向きの席に座ることになります。
ボックスシートとはこのような↓ものです。
また特急車両のようなクロスシート(全員が同じ進行方向を向いて座る席)でも窓際か通路側のどちらを確保するかが問題になります。
夜行列車なので車窓の風景なんて諦めるというのであれば迷わず通路側を勧めます。
理由は前席の下側のスペースが窓際よりも広いことが多い、通行する人に気を付ければある程度通路に足を投げ出せるなどです。
あとクロスシートでも気を付ける事として、自分が座る前後にグループがいないかどうか、ということがあります。
クロスシートは全部進行方向を向いているというのは発車前の整備状態がそうなっている時だけであり、誰でも簡単に座席を回転させてボックスシートのようにも出来ますよね。
グループ客といっしょだと例えばせっかく好みの場所の席が確保出来ても、「すみません、うちら3人なんでこの座席(または前の座席)を回転させてボックスにしても良いですか?」とか言われることがあるのです。(私は経験済みです。)
これを言われたら普通の神経の人であればまず断れません。
断れば「せっかくうちらグループで一夜を楽しめると思ったのに、こいつのせいで分割された」と思われるのは間違いなく、そのいや~な雰囲気が明朝のどちらかが先に降りる駅(または終着駅)まで続くのです。
そして「いいですよ」と言っても相手が悪ければ車内が皆寝静まった後でも、その連中が酒を飲んで大声で明け方近くまで宴会をやって全然眠れない、つまらない話しを無理やり聞かされるなど悲惨な一夜を過ごす可能性も高くなります。こういう人って結構たくさんいましたし、今も夜行列車があれば当然いるでしょうね。
●トイレに行くのも難儀
当時の夜行列車は混雑がひどい列車だと通路にもたくさんの立ち客がいました。
上野から終点の青森まで急行八甲田で約11時間、十和田で12時間、津軽で14時間立ちっぱなしの人もいたのです。トイレに行くにも手を洗いに行くにもこの立ち客をかき分けていくのですが、通勤電車と違うのは立ったまま寝てる人もたくさんいるのです。
また若くて体力のある人でもさすがに10時間以上夜通し立ちっぱなしに耐えられる人はいないので、途中で床に座り込んだり他人が座っている背もたれの通路側の部分に寄りかかったりして1分でも楽な姿勢になろうとしています。
こういう状況の車内でトイレに行くとかはかなりの至難の業と言えたでしょうね。
ここまで読んで夜行列車が未経験の方は「絶対に乗りたくない!」、「夜行列車がない時代でよかった!」と思う人もいるでしょうね。
これが発展途上国で人口が多い国だと網棚に寝たり、屋根の上に登って乗車したりなど日本では考えられない光景が日常なのでしょうね。
でもこれらの極端な事も戦争直後の混乱期では日本でもあったようですが。
夜行列車を克服すると・・・
克服、というのは目的の駅、終着駅に着いたことを言います。
10時間超にも及ぶ座席の長旅で腰を始め全身がガタガタかもしれません。
しかも夜行列車に乗った後に私が一番嫌だったのは体が汚れる、ということなんです。
1970年代~1980年代前半は列車にもよりますが、禁煙車などなくてタバコ吸い放題、吸う方も遠慮しない、吸わない人は何も言わずひたすら我慢という今じゃ考えられない時代でもありました。
1車両に喫煙者がほんの数人いただけで、自分の服や髪の毛はタバコ臭くなります。
喫煙者から離れた席に座っていてもです。
さらに横になってぐっすり眠れるわけではないので、半分以上起きています。
人間は寝ると代謝が落ちますが、起きていると代謝が活発なので汗や分泌物の量が多くなります。
そして喫煙の事や、換気があるとはいえ多くの人がほぼ密閉された箱の中に10時間超も閉じこめられるのですから服、体が汚れて臭くなるのです。若い時は終着駅に着いたら顔なんて脂ぎっていました。
だからなるべく早くお風呂に入りたいですが、早朝からやっている銭湯なんてほぼないし、駅にシャワールームなんてありませんのでその日は夕方までお風呂に入るまで我慢でした。
今のようにちょっとコンビニに寄ればウェットティッシュが入手出来る、なんてこともありませんでしたので結構つらかったです。
これが夜行列車を降りた後の最後の試練です。
でも駅を降りれば、または別の列車に乗り換えればそこからが旅のスタート。
朝早く着くので1日が有効に使えます。だから本来は夜行列車で現地に早朝着くのがベストなのです。
20代の頃は北海道、東北を旅するのに往復夜行列車のボックスシートを使っても平気でしたが、今のようにおっさんになるともうダメ。
往復飛行機か片道新幹線かな・・・? 年はとりたくねえよ!!
旅が今ここに始まる・・・
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夜行列車で一番印象に残っているのが、国鉄最後の日(62.3.31)の前日夜に乗った大垣行きです。初の続行便が急遽運行されるなど凄まじい状況の中、友人と共に「最後の日限定乗り放題切符」を片手にグリーン車に乗っていました・・・その時、今でも覚えているのが、みんな中島みゆきのオールナイトニッポンの最終回をラジオで聞いていたことでした・・・
キュア梅盛様
コメントありがとうございます。JNR最終日の大垣夜行ですか!
それはすごい!
私は最終日はTVで見ているだけでした。
翌日いつもの時刻の電車で会社に行くためにホームで待っていたら
入ってきた車両はいつもと同じなのにJRマークが物凄く新鮮でした。
中島みゆき・・・、同じ日が最終回だったのですか。
「十和田」(通称:「永遠だ」)や「八甲田」(コードネーム:「発狂だ」)ってば、
「1時間寝ては1時間起きてる」っちゅう、レム睡眠ばぁとるのが不可能だったから、
青函連絡船は、すーぱーうるとらちょ~助かったのっす。「浮かぶスーパー銭湯」っすね。
横になれるし、メシ喰えっし、シャワー浴びられっし、青森の地酒もらえる?っし、
新幹線なんかよかも、ずっとデラックス感があったのっす(当社比…っすが)。
・・・スチーム暖房で乾かした…って経験はないっすけど…ゆたか
指定席は「詰めて」発行されることがあったんで、取れたら取っといて、
自由席のワンボックス空いてたら、そちらに移る…っちゅうかなり自由な利用世代でした。
・・・もちろん自由席の地獄も見たことはあるんですが…はじめっち
「ドリームカー」も「カーペットカー」も使ったですけどぉ、
「カーペットカー」は2階のほうが個室感が保たれてよく眠れましたぁ!
「ドリームカー」は高級感あったけど、シートがなんかちくちくしましたぁ。
・・・やっぱよく寝れたのは「スハ43」でしたぁみならいかのん
あたいはむずかしいことはよくわかんないけんども、
西日本ってば、ほとんど早めに夜行列車姿消しちゃったけど、
20年ちょい前に、「急行だいせん」ってのに乗ったことがあるのだ。
東日本はほとんど14系とかいうのだったのに、12系とかいう、ガタガタ窓が鳴って、
隙間風が入って、むかしの「八甲田」「十和田」とかいう列車みたいだったのだ。
それでも早朝、鳥取に着くにはこれしかなかったんで使ったのだ。
ちょうど、「だいせん」と「タブレット閉塞」が歴史の中から消えようとしてた頃なのだ。
・・・鳥取着いても駅弁とかなかったのだつるみん「かにめし」喰いたかったのだ
4あほ様
こんにちは。コメントありがとうございます。
札幌は明日(4/21)が桜の開花予想です。
皆様も色んな夜行列車をご経験されていますね。
でもやはり八甲田(発狂だ←初めて知りました)など東北夜行抜きに夜行列車は語れません。
1時間おきに起きる、分かります。これを青森まで繰り返すのだから下車すると腰や首が痛くてたまらんです。
青函連絡船はおっしゃる通りパラダイスでした。もちろん時化なければという条件付きですが。
本当に体をゆったりと伸ばせてシャワー浴びれるのは極楽浄土、帰りも八甲田が待っているという恐ろしさなど忘れてしまいます。
早朝到着・・・駅弁なし。
私も各地で経験しました。駅弁売っていてもあっという間に売り切れになりますよね。
腹減った、ジュースなんかもういらない、心中でぶつぶつ言っていました。
そのかわり下車した後の駅前食堂の飯のうまさと言ったら半端じゃなかったですね。
色々懐かしいです。またお越しくださいね。
懐かしい夜行列車の話を拝読し、半世紀前の場面が蘇りました。
子ども時代、親類縁者がみな横浜在住ということで田舎の無いコンプレックスを持っていた僕は、1967(昭和42)年、中学2年生の夏休みに友人と二人で初めて東北へ旅立ちました。11時12分、僕たちの乗った鈍行125レは12番線ホームを離れると、翌朝7時48分青森着を目指して143駅に停車する長ぁ~い旅路に出たのです。
途中、深夜0時に花巻へ着いた時、目が覚めたので友人とデッキへ行ったあとに席へ戻ると、隣に座っていた乗客が僕たちの席を横取りして寝込んでいたため、仕方なく、蒸気機関車(当時はまだ岩手、青森の東北本線は非電化でした)のすぐ後ろに連結されていた車掌室?の横の小さな椅子に二人で腰かけましたが、とても眠れたもんじゃありませんでした。今でも、C62重連の煤の臭いを思い出します。
早朝4時、尻内で22分間の停車中に、前夜19時に上野を発った寝台特急「はくつる」に追い越されましたが、青森までの特急の所要時間は10時間半。こちらは、その倍の21時間でした。
翌年は、管理人様も経験されている夜行急行のひとつ「第2八甲田」(上野発14時17分、青森着4時17分)で北海道を目指す一人旅に出たものの恥ずかしさから列車内で同乗した人たちと会話をすることが出来ず、サロマ湖の夕陽を見た途端、猛烈なホームシックにかかり、一目散に横浜へ逃げ帰って来てしまいました。
高校1年生となった3年目は、上野発22時25分の常磐線経由仙台行227レを皮切りに、鈍行列車を乗り継いで日本一周をしました。
前年の失敗を克服すべく車中では自分から話しかけたため、今回は計画どおりに完遂出来、万々歳です。
仙台に翌朝8時45分に到着して30分後の青森行に乗り換え、青森へは19時20分着。青函連絡船は15分後に出航というスムーズなダイヤで、翌朝7時40分に札幌へ着きました。
さらに、日本海ルートでは、新潟15時15分発528レに乗車し、早朝3時39分に敦賀着とか、山陰本線の松崎を8時44分に出発した831レで門司に向かい23時過ぎに乗り換えて翌朝10時55分に西鹿児島へ到着するなど、気の遠くなるような乗車時間で、勿論、締めは大垣発144Mで横浜へ戻って来ましたが、15泊16日のうち、ユースホステルへ宿泊した以外の7泊は車船泊でした。
夜行列車が消えて淋しいものの、老体となった今、あの列車旅に挑戦する気力も体力もありません。
懐かしい思いは、このサイトを眺めることで充分満たされます。
浜のヨースケ様
こんにちは。お久しぶりです。
コメントありがとうございます。
昔はものすごい長距離普通列車があったのですね。八甲田もずいぶん時間がかかっていたのですね。
私もあちこち遠方まで普通列車だけで行ったこともありますが、1本の列車で長距離はあまりありませんでした。
一度東京から大阪まで普通列車だけで行きましたが、数本乗り継いだと言っても朝8時に東京を出て夕方5時くらいには大阪に着いていました。
途中のすべての乗換駅で10分から長くても30分以内で乗り換え出来て心情的にはイマイチの感じでした。便利すぎたのですね。
>懐かしい思いは、このサイトを眺めることで充分満たされます。
→ありがとうございます。当サイトを運営していて一番うれしくなるお言葉です。
今後も当サイトはマイペースで「偏見は無いけど独断に満ちた記事」で「あの日」を語って行きたいと思います。
どうか今後もよろしくお願いいたします。
うん!そういやぁ、東海道や西日本~九州を結ぶ(昼行・夜行を問わず)長距離客車列車ってのは、
山陰を除いて新幹線できる前から、あまりなかったような気がするです。
米原行き普通ってのはよくあったけどさ、うちらはあまり聞かなかったです。
みんな「急行」だったかもしれません、「高千穂」とか「桜島」とか「安芸」とか…。
そう考えると、東日本・東北ってのは、長距離普通列車の需要が高かったのかもしれないです。
・・・その土地の産業・職種にもよるかも…はじめっち
あたいはむずかしいことはよくわかんないけんども、
むかし種〇直樹とかいう人がいたらしくって、何十泊も汽車の中で寝起きしたとか…
聞いたことはあったけど、リアル10何泊したって話は初めてなのだ。
・・・周遊券で夜行折り返しで宿に一泊もしなかった人を「伝説」で聞いたことはあるのだつるみん
コメントさんの中で、「8:44に松崎から~」ってのは、野宿でなくってぇ、
「宝香寺」ってお寺さんに泊ったんすかなぁってば、あそこおもしろかったのっす、
何回か泊まったけど、毎回ハプニングばかりで、後輩の結婚式で礼服にアイロンかけてもらったり、
祝儀袋に筆で名前書いてもらったり、地酒を(たぶん)檀家さんからもらったり、
「ひまわりパジャマのねぇちゃん」(たぶん宿泊者)がおもしろかったりと、
住職はマジメそうだったすけど、集まる人間が個性的
だったのっす。たまたまだったのかもっす。
・・・松崎からハワイに船出てたっすゆたか
3あほ様
こんにちは。コメントありがとうございます。
確かに西日本は昔も長距離各駅停車は山陰くらいしかなかったですね。
でも高千穂とか東京発の尋常じゃない超長距離急行とかがたくさん走っていました。
昔の時刻表を見ると東京発、新大阪発(大阪含む)の九州行き特急、急行が物凄い数があって、
更に新幹線も走っていたのですから日本は高度経済成長真っ盛りだったのでしょうね。
幼少の頃大阪駅で見た九州行きの急行列車はまだ茶色の手動ドアの客車も投入されていたのを覚えています。
また上り列車も品川行きとかもありました。列車本数が多すぎるので品川も始発着に使わないとホームが足りないんですね。
植〇直樹 →よくご存じで。まさに伝説の人です。最近名前聞かないな、と思っていたら2014年にお亡くなりになったと知りました。
偉人が日本から消えた気がします。
またおいでくださいね。
ご無沙汰です。
夜行列車懐かしいですねー。わたすも八甲田、津軽、十和田は上下合わせたらかなり乗りましたね。腹減って着いた青森駅の青函連絡船待合所にあった今考えれば大して美味しくもないだろうラーメンが美味いなーなんて思いましたね。
そうそう詳しい年代は忘れましたが、八甲田で確か仙台~一ノ関くらいだと記憶してるんですが、「ゲリラ車販」に出くわしたことあります。寅さんみたいな腹巻きしたおっさん(じーちゃんかな?)「アイスいかがっすかーアイス!」とクーラーボックス提げて売りに来てました(笑)。怪し過ぎて自分を含め周辺の人は買ってませんでしたけどwww
左馬之助様
こんにちは。ご無沙汰です。お元気ですか?
北海道ワイド周遊券世代は必ず八甲田など東北夜行は使いましたよね。必須でした。
ラーメン、覚えています。それとは違う店かもしれませんが、待合室で冬に立ち食いの鍋焼きうどんを
食べた時感動するほどおいしかったです。というか味よりも寒かったからなのかもしれません。
「ゲリラ車販」、覚えています。私はその他にジュースやお菓子などを売りに来た人も見ました。
しかも昼間の急行やローカルの普通列車でも見たことあります。
アイスでもクーラーボックスはマシな方で段ボールに入ったまま手で抱えて売りに来ていたおっさんもいました。
その後の報道で知ったのですが、この手のゲリラ販売の一部は許可を得ていない不正な販売だと知りました。
もちろん正規の業者もいたのでしょうが、怪しい時間に腕章や名札など付けずに箱を抱えて売りに来る人は大方インチキだったようです。
健康被害などは無かったようですが、今考えるとすごいことですね。
またおいで下さいね。
3あほ様
はじめまして!
当サイトの大ファン、浜のヨースケです。
ご指摘のとおり、山陰本線松崎駅前の東郷湖畔から浅津温泉行の小さな連絡船に乗って「香宝寺YH」(鳥取県東伯郡羽合町下浅津195)に泊まりました。
本堂の中で暴れまわったゲームや歌のミーティングは仏様が仰天されるんじゃないかと心配になるほど盛り上がり、とても楽しかったです。ちなみに、手元に残る領収書を見ると、当日(昭和44年8月9日)の二食付き宿泊代は600円と記載されています。
管理人様
閑話休題、話を本テーマの「夜行列車」に戻しますが、あの時代の列車トイレは水洗式ではなく、糞尿をそのまま外へバラ撒く仕組みだったので、和式便器の穴から線路が見えましたね。
駅に停車中は使用禁止でした。
浜のヨースケ様
コメントありがとうございました。
ドアの付近(通路側)に「停車中は使用しないで下さい。」とか表示されていましたね。
走行中、便器の穴から枕木が流れていくのは爽快でしたが。
かなり昔ですが、沿線から匂いなどの苦情が相次いだので国鉄が調査したところ、走行中の列車から2キロ離れた沿線の洗濯物が黄色くなるほど遠くまで飛散していたそうで、タンク式を早く普及させるきっかけになったそうです。
連日お邪魔します。はい特にコロナに罹患した訳でもなく元気なのですが、そのコロナのせいで我が職場は忙しくて休みも儘ならずご無沙汰しておりますた。まーコロナで職を失う方もいるんですから感謝しませんと。
で、そうそう青森駅のラーメン屋さん、こちらの注文はとおるんだけど、それに対するおばちゃんの返答が一切分かりませんでしたねーうちの父親が山形なんで山形弁はまー理解できますけど、津軽弁はフランス語級ですねー^^
左馬之助様
コメントありがとうございます。思い出しました、確かにおばちゃんから何もありませんでした!
黙ってすべてアクションだけですね。こちらが不安になりますよ。
津軽弁と沖縄の言葉は外国語どころか宇宙人の言語ですよ(笑)
実は私は山形に割と深い縁がありました。横浜時代の会社で鶴岡の駅近くに拠点工場があってしょっちゅう出張していたんです。
(上越新幹線+羽越線の「いなほ」で。航空機は不便なので2度使っただけ)
多い時は週に2回行きました。山形市も数回行っていますがこちらはプライベートだけです。
庄内弁もわかりませんでした。出張者と話す時は標準語なんですが彼ら同士は強烈な庄内弁で通訳が必要なほどでした。
よく言葉の末尾に「けろ」ってつけている人がいましたが、「けろ」は山形市とか中央の方、庄内では「けれ」と聞きました。
でも「けろ」の人もたくさんいて、「けろ」ってかわいいな、と思いましたね。
女の子は若い子でも自分の事は「おれ」って言っている人が多かったです。
(当地の女の子は18歳で入社して21~22歳で結婚される人が多かったです。でも退職する人は少なかったです。)
あと「これってこうですよね?」と聞くと「んだ」と返答してくれました。
皆さんとても親切でいい人ばかりでした。懐かしいですよ。