アクとクセが強いユースホステル
全盛時代のユースホステルは?
【おことわり】
本記事の内容は特定のユースホステル(YH)を誹謗中傷したりするものではございません。
しかし過去には過半数のホステラー(宿泊者のこと)から敬遠されたり、内容について日本ユースホステル教会に苦情が殺到したYHもありました。
そのようなある意味名物YHにも触れますが、当サイトはあくまでも思い出に浸るのが主旨でございますので、低評価だったYH(廃業含む)などに付きましては一部除き固有名詞はなるべく避けて、「知る人だけにわかる」文にしてあります。
なお「お前がそんなこと言ったってあそこは素晴らしかった」と苦情を受けても困りますので、極力書き方には注意したいと思います。
(私も文の作成に最新の注意を払いますが、キリがありませんのでこのような↑コメントは承認/返答いたしませんのであしからず)
誤解なきようにお願い申し上げます。
本記事、以下をお読みになる方はこれら注意点を全て了承されて感情的なコメントを出さないということに合意されたとみなさせて頂きます。
YHは1970年代前半が全盛期であったと思われます。
会員数はもちろんですが非常に「アクとクセの強い」YHが全国各地に多かったからです。
YHを知らない人から見れば、「わざわざカネを払って泊まる安宿なのにアクとクセが強いところなんてイヤだ」と感じるのが普通であり、時代の流れと共にまずこれらのYHが徐々に排除され、そしてついにYHそのものも大幅減とならざるおえなくなって行ったのです。
その「アクとクセ」というのはまあ色々なのですが、「大騒ぎして大声で歌う夜のミーティング」、「何時行っても常連客がのさばっていて入りにくい雰囲気」、「ヘルパー(YHで働いている人。主にバイト)がアクが強すぎて、大声で受け答えしたり面白くもないギャグ風の言い方をする。」などが全盛時代には多かったと記憶します。
本記事ではこれらについて振り返ってみようかな、と思います。
アクとクセの多いYHの地域はどこ?
私はほぼ日本全国(北海道以外の離島、小笠原は行っていません)を旅したことがありますが、アクとクセが強いと感じたYHがある地域は「北と南」の両極かな?と思います。
もちろんこれら地域内にもそうでないYHの方が多いですし、甲信越などもアクが強いYHもありますので一概には言えません。
しかし北海道と沖縄はアクとクセが強いのは多くのホステラーの間では有名ではないかと思われます。
理由はわかりません。でも最果てのイメージが強い北(北海道)、南国の自由な雰囲気のある南の島々と考えると「そうかもね」と賛同して頂けるかもしれません。
私が多く行った地域は北海道が一番多く、その次が信州となります。
信州はどちらかというと正統派YHが多く、長野県は教育県として有名だからなのかどうか判りませんが、全盛時代も極端なおふざけYHは少なくミーティングも、「静かにお茶を飲んで語る。」、「ヘルパーのギターと共にあまり騒がずに歌う」というところが多かったです。
もちろん例外はありましたが全体的に静かでした。
それに対して北海道は「バカ騒ぎ」、「大声で歌い踊る」、「夏は毎晩大きなイベントをやる」というところが多く、広々とした大自然の開放感からなのか当時の若者にとっては大変思い出深い旅行が出来たのです。もちろん当時もこれらバカ騒ぎが嫌いな人もいましたけどね。
九州は私の感想の範囲ですが、北海道的な騒ぐYHと静かなYH半々かな?と感じました。
騒ぐとは言っても夏の北海道のパワーには押されていた気もしますが・・・。
沖縄は本島以外行っていませんが那覇YHと真栄田岬YH(まえだみさき)は泊まりました。
那覇YH→現 沖縄国際ユースホステル
真栄田岬YH→現 真栄田岬ダイバーズハウス
那覇YHは大変に立派な建物で内部も広く快適でした。現在の写真を見ても外観は当時と変わっていないようで快適に過ごせそうです。ただ築年数はかなり経っていますので老朽化はやむおえないかな?と。
数泊しましたが夜も静かに過ごしました。
真栄田岬YHに泊まったときは、「今日はミーティングなどはやりませんが、近隣で盆踊りがあるのでよろしければどうぞ」と言われて同室の人と盆踊りに出かけました。
その際、会場の端で泡盛をがぶがぶ飲んで相当出来上がっているご高齢の方に「お前も飲め!」と散々薦められて私も出来上がってしまいました。
北海道でアクとクセの強いユースホステル
どうしても一番多く訪れた北海道での話題が私は多くなります。
既に書いたYHの記事もありますので、それらについては以下の記事をご覧下さい。
さて上記以外(一部上記補足)の北海道のYHで思い出となったものをいくつか上げてお話しをしましょう。
北海道は本当に「アクとクセ」の強いYHが多くありました。(過去形です)
上記に上げたYHの中には比較的おとなしいところも含まれていますが、でも独自性が強いというか普通のYHではないところが多かったのです。
よくある○○の3大□□YH
この↑○○には地域名が入ります。例えば「北海道」とか「九州」とかです。
そして□□には「悪」、「汚い」、「食事が不味い」、「面白い」、「居心地が良い」などとなります。
これらは「3大」のこともあれば「4大」のこともあり、同じ北海道でもある地域では「北海道3大□□YH」だったり他の地域では「北海道4大□□YH」だったりで定義はありません。
というかこれらは単なる噂、お遊びなので真に受けるほうがおかしいのですが、ある意味それら地域の風物詩でもあったのです。
だから3大悪YHと言われるところでも、そこが大好きで何度も通う人もいれば、一度も泊まったことがないのに噂だけを信じて「絶対に行かない」とか他のYHやホステラーに「あそこは最悪」などと言いふらす人も多かったのです。
(これは今のネットの書き込みの悪い例と全く同じで最悪のケースだと思います。)
私は北海道のみこの言葉を聞いたことがあります。
もちろん私が聞いたのと違うYH名だったり、人により「素晴らしいYHなのに」という感じ方もありますし、何よりも僅差で誹謗中傷になる可能性がありますので具体的な名称は一部除き出さないことにします。もっとも今は閉館となったYHも多いことですが。
私が聞いた北海道3大面白YH
以下が私が泊まりまくっていた時代(1970年代後半~1980年代前半)に北海道で聞いた話です。
当時は「北海道3大キxxイYH」とかも言われましたが、今この言葉は差別用語のようですのであえて使いません。
面白い=良いという分類になりますのでここではYH名は実名を出します。
1.北海道礼文島・桃岩荘YH
なんとここは2018年現在現存し、たまにTV取材も入り全国ネット放送で何度も放送されています。
夏だけの限定開館ですが、ここに来て連泊しないのはおかしいのでは?という雰囲気になり、とにかく寝る・風呂に入る以外は常に踊って歌っているというすさまじさです。
一体何しにはるか遠くの礼文島まで来たのか?という感じですね。
時として真昼間から「ギンギンギラギラ夕陽が沈む~」と全員で絶叫しながら踊ります。
帰りの船に乗る頃には喉は枯れて、踊りすぎで全身が筋肉痛になります。
礼文島内を巡る「愛とロマンの8時間コース」とかもありますね。
船の送迎の時も港で大騒ぎをして、昔は出航する船を連泊者やヘルパーが服のまま海に飛び込んで海中から「いってらっしゃい~!」と手を振っていましたが、やはり危険な行為だからでしょう。いつの間にかやらなくなりました。
でも港での送迎のすさまじさは今も変わりません。
最近の様子をTVで見ると私が泊まった時に比べて建物は綺麗になった感じがしますが、建て直しではなくて改装なのかなと思いました。
そして昔と変わらないパワーには驚きでした。
2.野中温泉YH
詳細は別途記載した記事をご覧下さい。冬も含めて年中開館でしたが、特に夏のすさまじさは「これぞYH!」という元気さで一生の思い出を与えてくれたと今でも思っています。
3.えりも岬YH
ここは既にYHとしては閉館し、その後民宿として長年頑張って営業されて来ましたがついに2017年5月27日に閉館されてしまいました。
写真を見ると民宿時代になっても私が今から42年前に泊まったえりも岬YHそのままの建物で懐かしさで胸がいっぱいになりました。
私は初めて北海道に行った1976年の8月に1度泊まっただけですが、記憶ではとにかく物凄い人の多さでごった返していました。
そして当日はヘルパーがギターを弾いて皆で絶叫しましたがバカ騒ぎの踊りなどはなかったと思います。
これはその時のヘルパー、そして宿泊者数などにも関係あるとは思います。
当時でも古さを感じさせる建物でしたが経営形態が変わったといえどもよく長期間に渡り建物が持ったな、と感心します。
でも取り壊される運命なんでしょうね(既に解体済み?)
北海道での3大「悪」と言われたYH
これも1970年代後半頃に私が道内で聞いた話しです。
聞いた、と言っても所詮ホステラー同士の噂話しで、別の人に聞くと「あそこはとても良かったよ。何が悪いというの?」とかも多くありました。
人により感じ方はまるで違うのです。
だからここでは悪いYHとして書いたというよりも、「単なる当時の噂」と聞き流してください。
誹謗中傷などする気は全くございませんので。
1.夕食は必ず仕出弁当の道東の某YH
ここは旅館と兼業でした。「旅館兼業自体は問題ないが、いつも夕食は仕出は酷い」という人がいました。
旅館と兼業だと一部のYHを除き「YHらしさがない」、「ミーティングをやらないのでつまらない(ミーティングが好きな人は)」、「古い建物で不潔なところも多い(気がする)」などネガティブなイメージをいう人が多いです。
でも全て全てそうではありませんし、建物は旅館の旧館を使っていてもYHらしさは変わらず楽しい一夜を過ごせたという人も多いです。
そして旅館ならではの良い食事だったというホステラーも多くいます。
当時このYHについて私が聞いた話しは仕出弁当の話だけで他に悪い話しは殆ど聞きませんでした。
そして1980年代半ば頃の冬に縁あって(?)このYHに泊まる機会があったのですが、私が出された夕食は仕出弁当というよりは松花堂弁当で、豪華ではなくても充分に満足するレベルでした。
食べながら「これの何が不満なの?YHの料金考えたら素晴らしい内容」と思いましたが、もしかしたら1970年代の人が多い夏はもうちょっとレベルが低かったかもしれません。
でも1970年代半ばのYHは1泊2食付で1500~1900円前後で、当時の安民宿/旅館は3500~5000円でしたのでYHは破格の安さでしたし、その値段でこれだけ食べれたら文句はなし、と私はいつも思っていました。
2.理由は大してないのに「ダメ」評価だった網走YH
このYHは相当前に閉館しており、ネットで調べても殆ど情報は見つかりません。
閉館は1979年(昭和54年)3月31日ですので閉館後既に39年以上経ちます。
網走駅よりもどちらかというと1つ先の桂台駅に近い場所となります。
私は宿泊はしていないのですが、コンクリートの2階建てくらいの暗い感じの建物でした。
明らかにビジネスホテルとは異なる様相で、外観だけで低評価が付くのも仕方ないのかな?ともちょっぴり思いました。
現在検索すると多数出てくる「網走流氷の丘ユースホステル」とはあった場所も全く異なります。
Wikipediaによると現在は「ホテルオホーツク・イン」として営業しているとのことですが、ストリートビューで見ると建物も場所も全く異なるようなので経営者が同じ(或いはその後継承された方)だけだと思われます。
しかし私の手元には初めて北海道に行った時に使った「ブルーガイドパック北海道 昭和50年版」がありますのでこれで調べてみました。
(昭和50年=1975年)
以下の写真は全てクリックで拡大します。
↓まず昭和50年版ブルーガイドより
↓以下が最新のGoogle mapより
↓Google mapの航空写真
↑航空写真では駐車場になっていますがストリートビューで見ると4階建ての店舗兼アパートになっています。
ストリートビューは2018年9月2日現在の日付では「2015年7月撮影」と記されているので、その後取り壊されて駐車場になったのでしょう。
↓以下は1977年(昭和52年)10月12日に高度1600mから撮影した写真です。
はっきりと網走YHが写っています。右横の上下方向に細長いLBC会館は当時からあるようですね。
画像引用元:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス 様
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
何とか網走YHの痕跡を知ることが出来ました。
さて当時泊まったホステラーにダメな理由を聞いても明確な答えが返ってきませんでした。
単に「古いビジネスホテルっぽい」というだけの理由かと思われます。そして当時の若者の口コミということだったのでしょう。
3.3つ目は?
実は3大悪の3つ目は当時様々な意見がありました。
しかし北海道は上記2つを含めてもそんなに低評価のYHはなかったと思います。
したがってこの3つ目はご想像にお任せします。私の中でも色々と聞いた3つ目の候補はありますので。
でも私にとって道内で「こんなとこイヤ」とか「二度と泊まりたくない」というYHは1つもありませんでした。
北海道以外で面白かったYH
面白かったというよりも個性が強かった、印象的だったYHにいくつか触れてみます。
●諏訪湖ユースホステル
中央本線の上諏訪駅から山側に登った方角にある古い日本家屋のようなYHでした。
今は諏訪湖ユーペンハウスユースホステルという名称で存続しているようですが、サイトを見ると昔の諏訪湖YHの面影はありません。
特に室内はペンションのような感じです。
ここのYHは予約を往復はがきで出すと、とても丁寧なイラスト入りでお返事をくれるのです。
それはヘルパーが違う人でも同じでした。
当時大変に人気のあるYHでしたので夏休みは予約が難しかったのですが、私は電話ではなくてわざわざ往復はがきで予約を入れたのです。
それは丁寧な回答が見たかったからです。満室で予約が取れないと「ごめんなさい、諏訪湖ユースはあなたの期待にこたえて上げられません・・・」と鳥が寂しそうな表情で飛んでいるイラストが添えられていて感動しました。
男子トイレも簡単な暖簾で仕切られているだけでちょっぴり恥ずかしかったですが、何時行っても居心地のよいYHでした。
●乗鞍高原ユースホステル
標高3026mの乗鞍岳の中腹、標高約1500mの場所にあります。
山小屋風のしゃれた建物で何度も行きました。
但し交通はそれなりに不便です。松本駅から松本電鉄に乗って新島々駅へ。そこからバスで1時間強の乗車となります。
バス停からは徒歩10分程度です。
ここはとにかく静かな高原の中にあり、鳥のさえずりしか聞こえないような場所です。
8月でも気持ちよい涼風で都会に戻るのがイヤになります。
食事のレベルが大変に高く、YHと言っても手抜きはしないです。
特別凝ったメニューではありませんが、例えばしょうが焼きにしてもしっかりとした肉を使い、野菜もたっぷりなど他の食事の質の低いYHと同じ値段でよくやれるな、と感心しました。
そして私が通っていた1970年代後半は朝みんなでYH横の小川で洗面をするのです。
これは大変に気持ちよかったですね。
ペアレントの方は身長が高く大変に体格の良い明るい紳士でした。
今はどうされていらっしゃるのか・・・。
なおこのYHは2018年9月現在、現存となっていますが名称は「乗鞍高原温泉YH」と変わりました。
でも建物は昔のままのようです。
●別府ユースホステル
国内屈指の大温泉街、別府の高台しかも住宅や温泉施設などがある密集地にありました。
今はもうありません。
3度ほど宿泊しましたが一度はGW、あとの2回は夏に泊まったので全て大混雑でした。
部屋及び食堂など設備は昔ながらのYHという感じでかなり老朽化していましたが、YHらしくて好感が持てました。
私が泊まった時はヘルパーがギター弾いてみんなで歌ったりしましたが、踊ることはしなかったと記憶します。
食事の記憶はないのですが、可もなく不可もなくでまあ「悪くはない」と思います。
(つまり食事に関しては印象が非常に薄いのでこういう↑感想となった、かな?)
朝はパンでした。お風呂も温泉が引かれていてやや古めかしい湯治場みたいな雰囲気でした。
時期やヘルパーによっては相当大騒ぎするようですが、YHの外でのイベントはなかったようです。
何分付近は住宅などがたくさんある場所なので近所迷惑になりますよね。
他にも面白かったYHはたくさんありますし、不思議な噂のYHもありました。
それらについても今後ゆっくり書いていきたいと思います。
本サイトのカテゴリー「懐かしいユースホステル」に追加していきますので、このカテゴリーから探して頂ければ幸いです。
関連カテゴリー: 懐かしいユースホステル
YHに泊まったことのある方は老若男女問わずまた当サイトを訪れてくださいね。
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自分らが聞いたのは「仕出し弁当」じゃなくて、
早朝寝ている枕元に、メロンパンと牛乳が置いてある…という噂でしたが…ははは!。
泊まった時には、浜中YH~別当賀駅まで歩いて、
飛び込みで宿泊依頼したので、もちろん夕食は出ませんでした。
そして出発の時に昨日のことをいろいろと話したら、ペアレントさんが
列車出発までの1時間以上、玄関先でおもしろい話をしてくれまして、
なしてここが「悪」がつくんかいなと思いました。
これらの話は根室管内散策のベースになってます。
・・・噂とはまったくアテにならないものですはじめっち
もう一つの「悪」YHってば、ここだと聞いたことがあるんすが…
中春別駅~東に18㎞歩いた港町のそのYHに着くと
まず館内の温泉でひとっ風呂浴びせてもらった後、
夕食はテーブルで「ばあさん」「息子」「じいさんの遺影」に囲まれて、
出てきた夕食が「クリガニ」「カレイの煮つけ」
「フキの煮物」「ホタテ(ホッキも?)刺身」「すじこ」「ルイベ」「いずし」など
でかい鉢に山盛りで、菜箸で自由にとるという
今でいうモダンな「カフェテリア」方式?を採用してたのっす。
(要は家族の夕食に招かれたってやつっす。)
んでもって、「いいちこ一升瓶」で、コメ食う前に
「たんと飲め!」と、生で注がれたでんす。
結局、コメほとんど食わず酒ばかりだったのす。
(後にも先にもこういう歓迎?はここだけっす)
さらに、会員証を見て「あんた今日誕生日か?」って聞くや否や、
ばあさんが突然消えて、しばらくすると白い箱に
モンブランやチーズケーキ、ショートケーキとか
箱いっぱいに買ってきて、「お祝いだ、好きなだけ食え!」(朝も残りを食ったっす)。
「ばあさん」の名前は楠恵美子、忘れないっす。
「悪」かどうかはともかく、「伝説」のYHには間違えないっす。
・・・評価はお任せするっすゆたか
上記2名のあほの話を聞くにつけ、サービスには「ムラ」があったのでしょう。
でも、それが「いいところ」じゃないでしょうか?
寺院のYHなどでは、通常の夕食に檀家からいただいた「供物」などが並ぶことがあります。
それをみんな「ラッキー」と称して、手を合わせていただいたそうです。
朝食を提供していないところでも、(無料で)ピザトーストが出る卍があって、
そういう所は他にもあったんではないでしょうか?
・・・一律が全て良いわけではないみならいかのん
あたいはむずかしいことはよくわかんないけども、
北海道には「☆マーク」による施設のランク付け?制度が導入されたんだども、
あれはどうだったのか、(のちに全国に広まったのだ)考えちゃったりするのだ。
ある話では、増加する外国人ホステラーの要望によると聞いたことあるけんど、
それがサービスの質全体の評価にシフトされちゃったフシもあった気がするのだ。
☆の数はYHの「自己申告」と聞いているっすが、
ホステラーが「この☆の数、過大評価だ」ってなると
すぐ悪評につながる恐れが(現実に)あったらしく
非常に疑問を感じたと、はじめっちやゆたかは言ってるのだ。
ホステラーがYHの理念通り育ってきていない、
または感謝する気持ちが昔と今では変化してきている中で、
あの制度はどうだったのかなぁ…と減少の一途をたどるYHの今を思うのだ。
・・・減少の原因に「世代交代」もあるのだけどつるみん
すんません、反省と精進の甲斐なく、「偏見」に満ちた「いたずらくがき」となってしまいました。
思い上がりを思いっきり叩き潰してください!
・・・4あほ代表はじめっち
はじめっち&ゆたか&みならいかのん&つるみん様
コメントありがとうございます。
●「仕出し弁当」じゃなくて・・メロンパン~
浜中YH~別当賀駅まで歩いて・・
→私の頭の中にあるYHは実はここではありません。
浜中駅を通る路線の終点駅にあったYHなのです。
お分かりかな?
●中春別駅~東に18㎞歩いた港町・・・
→ああ、あそこですね。
私も泊まっていますがあまりに昔で1泊だけなので覚えていませんが、仰る内容は素晴らしすぎてどこが悪なんでしょうね?
●その他
確かにムラはありますね。ペアレントがずっと同じでもその時のヘルパーや常連によって雰囲気も相当変わります。
今考えると一番YHの思い出でイヤだったのは「質の悪い常連がのさばっている」YHでした。
そういう連中って【新参者のホステラーは無視して受け入れないのに女の子とばっかり喋っている】という人ばかりでした。
不愉快極まりない一夜でした。
またお出でくださいね。
別当賀から電話かけて、29.3㎞汽車に乗って、
支庁の裏手にあったYHでした。すんません。
・・・はじめっち
常連とヘルパーが手を組んだ時の力?ってば、
ペアさんも匙投げることが多かったようです。
それで消えてしまったところも少なからずらしいです。
・・・みならいかのん
失礼しました…
はじめっち&みならいかのん様
コメントありがとうございます。
>常連とヘルパーが手を組んだ時の力・・
→判りますね。Pも相手にしなくなるというか放任してしまいます。
そのしわ寄せはすべて初めてくるホステラーにかかるわけです。
まるでその常連は自分ひとりのYHだと勘違いしている人が物凄く多かったと思います。
それで消えたというのはうなずけますね。
ご訪問ありがとうございました。
またお出でくださいませ。
先輩!地震大丈夫なわかないでしょうが、大丈夫でしたか?心配です。
戸山中14期さま
こんにちは。ご心配頂きましてどうもありがとうございます。
私の家の被害は机や棚から本が落ちただけでした。
食器は全く落ちず家電品もそのまま、ガラス窓も一切割れていません。壁などのヒビや歪みもなく結論として破損品は皆無でした。
体感的には震度5弱くらいかな?と思います。
ただ長い停電には参りました。
電気は来ない、ポンプが動かず水道が出ない(ガスは出た)などです。
家から直ぐの事務所は水が豊富に出たので、その方が近隣の人は自由にお使い下さい、ということで何度も汲みに行きました。
つまり私の居住地区は電気だけで断水はなかったのです。
たまたま家の水道は個別のポンプ経由だったので停電で止まっただけでした。
家から徒歩2分のスーパーも地震後2日間は店内に入れず店頭売りのパンと弁当、飲料のみでした。
停電が起きたのが6日の地震後20分経過の午前3時半くらい、停電復旧は7日の19時半なので40時間電気が止まりました。
LEDランプと手回しラジオを聴きながらの夕食はきついです。
とにかく単純な停電ではなくて、「復旧見込みが全く不明」が精神的な強いストレスでした。
子供もかなりつらかったようです。
幸い現在(15日、21時半)に至るまで余震も震度1~2しかなく、お店の品物もほぼ正常に戻ってきました。
しかし被災されて家に住めなくなった方、お亡くなりになった方を思うと諸手を挙げて「良かった」とはとてもいえません。
でも札幌市内は節電で一部ネオンなどが消えていますがススキノも平常ですし、その他観光地も元に戻った感じです。
お時間が取れましたら札幌にも遊びにお出でくださいね。
復興の一助にもなりますので。
『えりも岬ユースホステル』は既に建物は解体されたようですよ。
ちなみにペアレントの御親族が開業されていたのが『積丹かもいユースホステル』。こちらも今は廃墟が残るのみのようです。
『根室玉屋ユースホステル』、自分が20代だった頃はメロンパンユースの通称で知られた存在でした。仕出し弁当が夕食に出るなんて、全然問題なしかと。今の時代だったら、きっと4つ星扱いでしょうな。
閉館後は建物もろともなくなってしまったようですが、跡地今はどうなってるんでしょうか?。
今も営業している『スワコユーペンハウスユースホステル』ですが、お泊りになられたのは現在地とは別の場所にある初代建物の方じゃないでしょうか。こちらの建物、元は江戸時代に建てられた茶屋『橋本政屋』として現在も現地に残っていますよ。
『別府ユースホステル』、こちらも泊られたのは初代建物の方ですね。最盛期にはかなりの隆盛を誇ったこのユースホステル、その人気ぶりに応えようと公務員宿舎に移転し大幅に収容人員を増やしたんですが、ユースホステルらしさがやや薄れたためか逆に人気が右肩下がりになったとも。
とあるペアレントさんに聞いた話では、閉館に至った最大の理由はペアレント一家の介護事情に因るものだったようです。
んにゃ様
コメントと様々な情報ありがとうございます。
「えりも岬」はかなりボロボロでしたから時間の問題だといつも思っていました。
「諏訪湖」はおっしゃるように初代のほうだと思います。
確かに非常に古くて趣のある建物でした。
「別府」懐かしすぎです。
ネットにも殆ど最初の建物の情報がありません。
公務員宿舎への移転は全然知りませんでした。
別府は楽しかったなあ・・・。
既に忘却の彼方です。
ご訪問ありがとうございました。
桃岩荘には2年前に行きました。
十数年ぶりの訪問でした。
ユースホステルの運営自体は殆ど変わっていないようにみえましたが、食事提供が無かったり、確実に時代に合わせて変わっている部分はありました。
同時に1990年代後半のパワーはなかったです。
8月の上旬の夏休み期間中で宿泊者は20人程度、それも外国人や家族連れ(若いころ桃岩にはまり、家庭を持った後に子供にも体験させたいという形?)が目立ち、8時間コースも家族連れを入れてようやく1チーム編成で来たという感じでした。(90年代はユースが衰えたと言っても8月下旬で2-3チームは編成されました)
確かにユースホステル自体が衰退したとも言えますが、何よりも若者が旅行をしなくなったことも大きいかと思います。稚内にいた旅人も老人と外国人ばっかりです。
北の桃岩に対して南は別府と言われていましたが、別府ユースは1990年代の後半にペアレントの実務を息子さんに任せて以降、歌って踊ってから居酒屋路線に舵を切ったようで、2000年になると「ペッパー大会」と言うペアレント主催のオフ会が行われるようになりました。11月の3連休中に実施したのですが、全国から人が集まったと言います。
最も日常生活では特異である筈のユースホステルと言う関係の人間関係が濃密になればそれだけ揉め事も増えたようで、こうしたオフ会は2年程度で下火になり、それから間もなくして別府ユースは廃業となったようです。
原因は解りませんが、ペアレントは時代の流れについていけなかったと言っていましたが、移転が裏目に出たともいわれています。
とは言え、別府も桃岩も時々色々な思い出が蘇る事があります。
特に昨年11月に別府駅に降り立った際には丁度ペッパー大会の時期と同時期だったので、「特急ゆふ号で私と誰と誰が降り立ち、それを追いかけるように特急にちりんでアレが合流、待っていた誰の車でユースに行った」と思い出してしまいました。
当時のペッパーメンバーは今どうしているのかな?とふと思いました。
広島育ちです様
こんにちは。コメントありがとうございます。
広島育ちです様のおっしゃる別府YHは私が泊まったのと同じYHですね。
さすがにこのYHの晩年は知りませんでした。
別府に限らず1980年以降、つまりYH衰退期になってから定期的なイベントを始めるYHというのは今思うと明らかに経営危機を乗り越えたいのがミエミエなんです。
すべてとは言いませんがそういうYHのイベントって結局常連が固まっていて、初めて訪れる人、何回も来ているけど常連のあの雰囲気に入れない人からは敬遠されて足が遠のくと思います。
別府の衰退の真の理由は分かりませんが、そういう面もあるのかな?と思います。
桃岩荘は今でもTVで取り上げられるし、あの名物の送迎はYouTubeにもたくさん上がっていますが、いつまで続くのかなとかなり疑問にも思います。
桃岩荘のような個性的なYHらしいYHには残って欲しいのですが時代の流れは確実にこのようなYHを否定する方向になっているからです。
ご無沙汰しております。
およそ1年前にコメントさせていただいていたのですね。
桃岩ユースホステルは昨年は休館だったそうです。
原因は武漢発の新型コロナウイルスの感染拡大です。
コロナ禍では色々と生活様式の変換を余儀なくさせられましたが、特に桃岩ユースホステルでの過ごし方は新しい生活様式に照らし合わせると真逆です。
相部屋、大勢でミーティング、歌って踊るなど、どれをとっても感染リスクを高めるものばかりです。
ユースホステルによっては一人一室や食事時間をずらすなどの工夫をしているようですが、もはやこうなればビジネス旅館です。
コロナウイルスが日本型ユースホステルの止めとなるのかも知れませんね。
広島育ちです 様
こんにちは。コメントありがとうございます。
お久しぶりです。再訪ありがとうございます。
桃岩はあのスタイルなので休館しないと無理ですね。
今年は復活してくれれば良いのですが。
各ユースは大分前からビジネスホテル風、民宿風が進んでいましたし、そうでなければ生き残れない時代でもあると思います。
でも昔のユースらしさがないとユースではないですね。
少なくとも桃岩のような個性的なユースは残って欲しいです。
管理人さんこんにちは。
私は、1969年と1971年に桃岩ユースに各々連泊しました。
管理人さんやコメント欄によると「歌って踊る桃岩ユース」に、びっくりしました。
私が宿泊した当時のペアレントさんは30歳前後の方で、物静かな人でした。
ミーティングの時は、まず、ペアレントがギターの弾き語りでフォーク調の歌を歌い、その後全員で「我ら、島を愛して旅を行く」という題名は忘れましたが、歌を歌って終わりでした。
多分、次のペアレントの個性で路線が変わったのでしょうね。
MI-6様
こんにちは。コメントありがとうございます。
桃岩も静かに・・・という時代があったのですか!それが驚きです。
桃岩のすごい所は1970年代の全盛期から現在に至るまでこの過激な内容が受け継がれているということです。
だいたい今はYHの会員数もYH自体も激減して、存続しているのが不思議な状態になっています。
またYHが若者に敬遠されて原因の一つとして「厳しい規則」と「ミーティングに時代錯誤を感じる」という事があったそうです。
私はYHに泊っていた時代はバカ騒ぎも静かにお茶を飲むのも両方好きでしたが、今となっては敬遠される理由は十分に理解できます。
時代についてこれなかったんですね。
でも桃岩は違うんですね。不思議でなりません。
YouTubeで桃岩YHを検索すると、バカ騒ぎミーティングや強烈な送迎をやっている風景がいくつも見れますよ。
またたまにですがTVで繰り返し桃岩荘の1日が紹介されていて、「え!今でも変わらないね!」と驚きます。
ぜひ検索して今の桃岩荘を見て下さいね。
私が北海道に入り浸っていた時代は、桃岩、えりも、積丹かもい が三大、と聞いていました。
知り合いがかもいのヘルパーだったもので、彼の自己申告ですから積丹かもいが本当に入っていたか?は分かりません。
自分はYHではなく、サロマ湖のペアレントが始めたとほ宿に出入りしてました。
とほ宿としては普通でしたが、阿寒、釧路、層雲峡、大雪山と、どこでもツアーで連れていってしまう、と揶揄されていたようです。
当時の足のない自分には有難い存在でしたけれど、生粋の旅人や旅人宿からすると邪道だったのかもしれません。
r-14様
こんにちは。コメントありがとうございます。
「三大」というのはその場その地その人によって大きく左右されますね。
特に全盛期のYHの話しなんてお笑い話しみたいなものです。
三大、という言葉は実は日本でしか使われない言葉だそうです。
「世界三大XX」というのも実は日本人が勝手に言っているだけで海外では全く通用しないとか。
「とほ旅」、ある意味YHに準じていましたがそれはそれでよかったのではと思います。
一番大切なことは一人一人の心に良き思い出として残るかどうかでしょうね。
また弊サイトにお越しくださいね。
初めまして。エーオーブンと申します。
たまたまユースホステルについて検索していたら、こちらのブログ記事にたどり着きました。
自分の場合ユースホステルと言えば、中学の平和学習で泊まった広島ユースホステル(閉鎖済)が懐かしい程度です。
ただ私の父は若い頃、近畿地方のツーリングで泊まったYHが、まさに記事中にあるような癖の強いホステルだったそうです。確か夜の宴会で一発芸を求められたとか…?
このため、半世紀経っても残るトラウマになってました。
エーオーブン様
こんにちは。コメントありがとうございます。
広島ユースは相当前に私も1度だけ泊まった事があります。ただ日程都合上の中継基地として利用しました。
広島駅からはだいぶ遠かった記憶があります。バスに乗りましたね。
お父様のトラウマ、分かります。当時はこれが好きな人と嫌いな人の両極端でした。
私は若かりし頃は楽しければ、という部分もありましたが、「常連が中心」とか「やり過ぎ」とかはやはりちょっと、と思っていました。
ある意味私もトラウマですが今となっては懐かしくも思います。
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